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KDP全作品の配信を停止しました。

  先日、タイトル通り、Amazonキンドルダイレクトパブリッシング並びに、楽天koboで出版していた、長谷川善哉名義の三作品すべての配信を停止しました。此の機会にそれ専用のアカウントのTwitterも削除して、完全に自由人になりました笑

 KDPは初めて一年半くらいで、配信停止の理由は、まあ、こんなものかいな~、ということが判断できた感じでしたので、やめた、という感じでしょうか。もともと出発も、一時的にやってみるか、って感じだったので。なんか壁にぶち当たったという要因もあって。でも、これは乗り越えられそうです。というか、乗り越えます。

 今後一切セルフパブリッシングをしない、ということじゃなく、一定期間辞めるということです。ちょっと別のことをしたいと、思いはじめてるんですね。ツイッターは消したんですが、ブログは迷っています。消してしまうと、これまで書いてしまった記事の復元がまったくできなくなってしまうんです。Amazonの作者ページに飛べるバナーも貼りつけていたりして、ひとつひとつ記事から切り離していくのも面倒だし、これはしばらくこのまま放置ということでよいかな、と思っています。まあ、ぼくは新刊をこの一年出していなかったので、もう昨年からやめていたようなものです。それでぼくがKDPを一年半やってみて、気づいた点について、最後なので今回は少し書こうかな、と思います。

 まず、自著についてですけど、それまで自分にはわからなかったことにいくらか気づかされた、というよい点があったと思います。KDPはその圧倒的なプラットホームとしての集客力と、商業主義の作品と並んで、同じようにお金を出して読んでもうらう、ということが強みだと思います。アマチュア作家の作品を読んでもらうプラットホームはネット上にいくつかありますが、あくまでそれは素人の作品のお披露目場で、ゆえにセルフパブリッシングでは、読者の視点も辛辣、ある意味では公正的なものになります。

 そもそも他人に読んでもらう、というのは、客観的判断を仰ぐことであり、著作者にとっては非常に怖いことなんですが……たとえばアマゾンのレビュー等見ていればわかりますけど、読者は本当に身勝手に読書をするので笑、商業本でも、こりゃ、ひどい、というレビューを見かけることがしばしばです。これが素人の作品となると、いいたい放題なんじゃないか……おそろしや……と思っていましたが、ぼくの作品の場合はマイナー故読者が少なかったせいだと思いますが、レビューして下さった方は好意的なものが多かったようです。Amazonのレビューだけに限らず、ツイッターでも反応がありましたし、自らのブログにぼくの作品のことを書いてくれた方もいらっしゃいましたし、直接メールをくれた読者の方もいらっしゃいました。改めて感謝を申し上げます。

 一方セルフパブリッシングをやって落胆した部分もありまして、これが辞めようと思った大きな理由ですね。たとえば村上春樹氏の例をだしますが、彼は小説を書いている著者として最も大事なことは、読者と繋がることであると明言しています。それは「単なる読者」ではなし、「愛読者」のことを差していて、彼らは自分が考えているより、ずっと作品の内部について、その核心について触れている、といっています。そういうことを知ったとき、本当に読者と「小説」を通して繋がっているんだな、と思えるし、小説の力を感じるのだといっています。彼はそれを読者とのメールのやりとりで実感したらしいです。それがあるから自分も書けていると。ぼくの場合それがありませんでした涙

 もちろん自らの非力が最たる理由でしょうけれど……。素人ヘタレ作家とノーベル文学賞候補作家を比べられてもね笑 ただぼくがセルフパブリッシングをやろうと思った最大の意図は、実にそれでした。読んでもらって、面白かったです、といわれて確かに嬉しいですけど、たとえばぼくが当ブログで文学作品や、美術展のレビューをかなり細かく書いていたのは、ひとつは「イノベーション」ということを考えていたということと、もうひとつはそういう著者の意図があったためです。商業主義と比べればマイナス部分が多いセルフですが、唯一長所があるとしたら、それだと思いました。でも、不可能だ、というのが結論です。

 それで、まあ、セルフパブリッシングとはとりあえず、一度距離を置こう、と。

 さらに、ぼくは文芸評論もかなり読む人間なんですけど、批評がないところには作品は成り立たないと思っています。小説というのは、何十万部も売れるものもあれば、少数の人にしか読んでもらえない作品もあります。まったく読まれないものもあるでしょう。しかし、それが小説として成立するのは、作品の核心を読みこんでくれる読者がいるからだ、とぼくは信じて疑いません。

 たとえば、ドストエフスキーカフカなど、いわゆる19世紀から20世紀にかけて、無数に論じられた巨人の文豪たちの作品もぼくは好みますが、日本のマイナーな作家、小山清木山捷平伊藤桂一の戦記小説や、野呂邦暢や、第三の新人の作家の中でも最もマイナーだといえる小沼丹や、内向の世代でもやはり最もマイナーである阿部昭のような作家も読んでいます。それらの作品を単に面白いという理由からだけじゃなく、核心を理解するから読んでいるわけです。そもそも消費物としてのエンタメじゃない古典的な本の面白さは、その「核心」をつかめなければ、面白味、なんてあるはずがないです。

 そういうマイナー作家を論じる商業主義の文芸評論家も極端に少ないのは嘆かわしいことです。じゃあネットは? と期待をかけたのですが、やはり少ないです。読んでいる方がいるはずなんですが。たとえば昭和初期に活躍した破滅型の私小説作家である嘉村磯多など、ぼくが書いたレビューが、ググるとかなり上に来るんですけど、これおかしいと思うんです。西村賢太さんが「どうで死ぬ身の一踊り」で初の芥川賞候補になったとき、彼が師事する大正時代の藤澤清造という私小説作家のことを選考委員の誰も知らなかったことを、評論家の坪内祐三さんが、西村さんの作品の文庫本の解説で書いておられますが、さらに小山清でさえ彼らは知らないのではないだろうか、と皮肉ってますけれど、世も末です。文芸/アートとは反社会的(それはマジョリティ―としての「一般性」を破壊するという意味合いを含む)なものである、というのがぼくの基本理念なので、ゆえ、それを許容しないのが世界であるのなら、そんな世界は滅べばいい、と思っているのが、ぼくの持論です。この国も、地球も滅べばいいんです。彼らの作品がぼくの胸を突き刺すのは、そのマイナーで地味すぎるその小さな世界観の中にも、彼らにしか描けないアートの核があるからです。ぼくが美術や音楽や文学や映画などジャンルの垣根を超えて、さらにメジャーなものだろうがマイナーなものだろうがどんどん首を突っこんでいくのは、そこにしっかり芸術の核が存在するとわかったからです。作品は時代を超えて、それはぼくに届いています。繋がっているんだ、と思います。

 でも、この広告業界でさえ危うくなった現代、これはなかなか難しい問題でしょう。ブログは迷っています。嘉村磯多ですら、書いている人がいない。じゃあ、ぼくが書くのかなあ……。無償で書くのが嫌だ、という人も多いでしょうけど。そういう意味では、セルフパブリッシングの作家たちの作品こそが、歴史上最も無名といってよいかもしれませんね。本当は当ブログでそれらの作品もレビューしようと思っていたんです。でも、ひと悶着ありまして、やらない、と最初の頃に決めてしまいました。なので、あまりKDPの作家の方たちと積極的に交流もしませんでした。実際文芸作品はセルフパブリッシングでは、驚くくらい少なくて、はっきりいって、それにもちょっと絶望しました。実際小山清を知っている人はどれくらいいるでしょうか……。

 実はぼくはKDPが始まった頃から、セルフパブリッシングに関してはいろいろネットで見ていたんです。それで2015年になったときに、そろそろ用意は整ったかな、と思いました。理由は、スマホというデバイスの登場が大きかったです。合わなかったら、すぐやめちゃおうと思いました笑。最初は最安値の100円で出しました。一冊も売れませんでした。それでやめようか、と思っていた矢先、プライスマッチを利用する手立てを知って、無料にしたところ、少しずつ読まれるようになったんです。でも、それでもこんなもんか、という先に書いたとおりの感じだった、というオチだったわけです。

 それで、ぼくは次のステージへ挑戦することにしました。とりあえず商いの息子としては、全国行脚です。またふらっと戻ってくる可能性も十分ありますが、そのときはまた初心に戻ります。この一年半のあいだたくさんの方々にお世話になりました。これからもセルフパブリッシングの作品は読みますし、応援していく所存です。ということで、しばしお別れを。今回はそんな記事でした。世界のすべてのアーティストに栄光あれ!

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「松に鴉・柳に白鷺図屏風(部分)」 長谷川等伯 桃山時代

 長谷川というのは、ぼくの本名ではありません。ぼくが敬愛してやまない同郷である石川県出身の桃山時代の絵師、長谷川等伯、から拝借しました。ぼくは身勝手ながら長谷川派の末裔の弟子のひとりだと自負しており、その名に恥じないようにこれからも作品に取り組んでいく所存です。等伯の絵を観て、ぼくも自分でなにかをやろうと思ったのです。兄のためにも。