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脱することができない者たち

エッセイ

 この方の記事、これだけに限らず、有名なハテナブロガーさんらしいけれど、納得のゆく精査と論理で面白い。

rootport.hateblo.jp

 なんでこの記事に惹かれたのか、というと、最近ぼくの彼女の母親がいわゆる「おれおれ詐欺」に引っかかったからです笑 まあ、冗談で笑い飛ばせる出来事じゃない。被害額は100万強だから。

 まだ年でもないし、絶対にそんなものに引っかからない性格の人なんだけれど、引っかかった。事実を聞かされたとき、「嘘でしょ?」というのが、ぼくの開口一番の言葉で、どういう経緯で、なぜ振り込んでしまったのかを聞いても、やはり理解することができなかった。この事件の面白いところは、これは不謹慎な言葉だけれど、つまり面倒なところは、被害者本人にも、なぜ引っかかったのかわからない、といっているところなのだ。でも、これがいわゆる「詐欺の正体」なのだ、とぼくは思う。

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 なぜ自分が貧乏なのか、なぜ自分はついてないのか、なぜ自分は失敗したのか、こういうのって、人はそれなりに理由付けくらいはいろいろできると思う。ぼくは哲学を齧っていたので、簡単に思うけれども、人は結局ヘーゲル的な意味で「結果」からしか「原因」を知り得ることができない。たとえば、なぜ貧乏なのかは、結果から判断できる。でも、人は未来を予測することはできない。もちろん可能性としてはできる。でも、教科書を習って、不運から脱出することは多くの人はできないでしょう。それは努力や知恵が足りないからもあるけれども、人間には「絶対」というものがないから、というのが正しいんじゃないのかな。というか、薄々そのことを知っているということが。「可能性」が、ただあるだけ。

 最近どこへ行っても、「勝ち組」「負け組」の話ばかり聞かされる。どうすれば勝ち組に行けるのか。敗者からの逆転劇はありえるのか。もし、彼らがなぜ「敗者」から少しでも脱出しようとする努力をしないのか、というならば、ぼくが思うに、怠惰や認識不足というよりも、そのことを無意識に知ってしまっていることからくるものが大きいと思う。

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

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  たとえばアメリカの黒人作家を代表するノーベル文学賞作家のト二・モリソンの文学作品は、それを的確に描いた典型例だと思う。モリソンが黒人問題をマスだけの問題として、己の作品にクローズアップさせているか、というと、彼女はやはり文学者なのであって、読めばわかるけれども、違っていて、彼女が描いているのは、この「可能性」を常に脅かす強者からの「視線」であって、「強者」がなぜ「強者」なのか、といえば、それは「弱者」がいるからにほかならない。

 ここでひとつ問題定義したいのは、ぼくたちの住むこの「社会」であって、弱者がなぜ敢えて弱者の選択をとってしまうのかは、なによりこの「社会」の問題が大きく横たわっている。なにもこれは構造的な「制度的問題」のことではなく、文字通り「社会」のこと。この世に生きている限り、社会的ではない人間などひとりもいない。黒人は黒人に生まれついた途端に、すでに「弱者」としての運命を背負わされているのは、事実だと思う。

 フォークナーからはじまるアメリカの南部文学は、負の連鎖を断ち切れない業、を描いて、みごとな文学的発展を未だに見せているのは驚嘆に値する。南部の者たちが抱える負とは、南北戦争における傷痕、にほかならないんだけれども、彼らの多くは「敗者」から脱しようとはしない。彼らがやるのは、再びあのときの惨劇が「再現」されないよう、自らの家の扉を固く閉じることだけだ。北部へ脱走を試みる者もいるが、たいていは、たとえばカポーティが描く人物たちのように、彼らは南部の亡霊に纏いつかれて、非劇的な狂気や死に至る。

 勝ち組、負け組、いろいろいわれている昨今、知り合いの大学の先生に最近いわれたことがあって、興味深かった。親が年収800万ほどと、年収300万ほどの生徒が、学校でぱっくりとふたつに別れているらしい。後者の学生たちのほうが憂鬱な顔をしているという。これはぼくが通っていた頃の当時の大学時代とべつに変わるところはなにもない。ぼくが思うのは、ひとつはマスとしての社会的問題、つまり政府が取り組むべき問題があるということ。これは絶対的な政府の課題であって、国民の貧困化を防ぐために血の滲む思いで取り組まなければならない。一票を投じるぼくたちの声もあげなければならないことだと思う。もうひとつは個人としてやはり「可能性」を広げる努力をすべきことも大きいと思う。

 あと、もうひとつは、これ、なんでかな、すごい謎なんだけど、TVやラジオ、ネットなんかでもぜんぜん見ない認識だし、まあ、考えてみれば当たり前なのかもしれないけど、そもそも人にはそれぞれ逃れられない運命というものがあって、モリソン風にいえば、いくらそこに種を植えても芽が生えない不毛地帯というものは必ずあって、だとしたら、それを受け入れろ、ということだ。

 こういうことを人前で発言をすると、皆すごく嫌な顔をする。ネガティヴだ、という。だから、今ぼくはこういうふうにネットで書いているけれど笑 基本的にアート(文学、美術、映画、音楽等)は、この人間のどうにもならない不毛を扱うもので、ぼくにはなぜ人がアートを人生のひとつの希望や拠り所としてそれを見出さないのかわからない。いつから経済だけで、人は人の価値観を図るようになってしまったのか、そっちのほうが問題なんじゃないだろうか。

 たとえば絵画とか、とりわけピカソ以降のモダンアートなどをバカにする人が後を絶たないのは、本当に悲しい事態で、「こんなのは子供でも描ける」と。彼らはアートを自分とは関係のない特異な世界だと思っているし、胡散臭いインチキだとも実のところ思っている。この理解を示そうとしないところが、貧乏を脱出しようとしない、という人たちの姿勢とどこか似ているような気が、ぼくはする。アートは人が「信頼」している、政府と国民とのあいだに成立している経済的価値観を粉砕する。ピカソの子供の落書きめいた絵が破格の値段に相当するのは、それがそれだけの資産価値があるからというのとは、実のところ違っていて、現在の流通する「価値意識」を逸脱するからだ。人がアートに引き寄せられていくのは、そこに「現実」とは違った、価値形態、を見出すからで、それは芸術の問題だけではなく、経済的問題でもあり、まさに現実的問題である。それは文字通り、虚構、の世界なんだけれども、人は「現実」ばかり見て、その「現実」が実は、虚構、との関係性において成立するものであることににはなかなか目を向けようとはしない。実際この手の感情論を把握していないと、投資家のほとんどは失敗する。

 この記事ではモリスンの例を出したけれども、たとえばの話、アメリカで黒人として生まれたから、といって、皆が自分のことを不幸だと思っているだろうか? 彼らの多くは日曜日は教会に通い、ゴスペルを歌う。彼らは黒人に生まれたからこそ、神を信じている。「己は敗者として生まれたのだ」と認識するところから出発する道もあると思う。もちろん、この世に誰も敗者など存在などしない。