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こころ 夏目漱石

日本近代小説

 

 夏目漱石の面白い小説はなにか?
 前期、中期、後期からひとつずつ代表作をあげるとすれば、『草枕』『それから』『こころ』辺りじゃないかなと僕は思うんですが、さらに傑作を凌駕する力作にあたるのが、最初の『吾輩は猫である』と最後の『明暗』かな、と思っています。
 僕が若かった頃、『こころ』は教科書的で、行儀よすぎて、つまらない、という批評がなぜだか多く流行っていました。「これからは前期漱石を評価せよ」みたいなムードがあって、『「吾輩は猫である」殺人事件』を書いた奥泉光さんなんかも『草枕』辺りまで、とかそんなことをインタビューで語っていた記憶がある。批評家の方も『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』を愛読書にあげている方が多かったです。
 まあ、どんなふうにでも読めるし、どう読んでも楽しいのが漱石だと思うんです。皆が好きに読んだらいいんじゃないかと思います。僕は漱石の小説はぜんぶ好きですが、一冊選べといわれたら、『こころ』です。っていうか、これまでの小説ぜんぶの中から一冊選べといわれたって『こころ』ですね。

 

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)

 

 

『こころ』における先生の死

 主人公の書生が夏休みに出会った「先生」という人物との邂逅を回想するくだりから、この静かな小説ははじまります。

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。  (『こころ』 夏目漱石)

 東京に戻ってもつづいていく2人の親しい付き合いの中で、主人公は先生に次第に不吉な影を読み取っていきます。謎に満ちた先生に、過去になにかあったのじゃないかと、彼はだんだん勘ぐっていくわけです。
 それは先生とその美しい妻とのあいだで起こったことであり、墓参りに出かけていく、その相手である死んだ友人も関係があるのじゃないかということがわかってきます。彼は東京の大学を卒業し、病気に伏して死間近である父のいる田舎に帰省するんですが、死というもの、自分の将来についてなど、あれこれ考えるうち、先生から分厚い手紙が届きます。小説の後半は、その先生の手紙によって、謎だった過去が明らかにされていくことに、ページが費やされていきます。

               ※               ※

『こころ』という作品はそれほど長い小説ではありません。漱石の最も有名で、代表する作品ですけれども、―漱石の小説ははっきりいってどれも未完なんですが―、この小説は未完を逆手にとって完結しているともいうべき不思議な「未完の美」をその性格に持っていて、未完の大家漱石はとうとうここで、自分なりにひとつの決着を着けた、と僕は思います。とにかく人間の「生」というものが、この長編小説には凝縮されていて、主題がその内容だけにとどまらず、構成においても、とても深く突き詰められているのです。
 内容を見ていきます。この作品で大きな題材となっているものがいくつかあることに気づきます。
 第一に金銭の問題が、とてもこの作品内では重要なモチーフとして働いています。先生は猜疑心が強い人間として描かれてあり、その原因は早くに両親が亡くなったあと、親代わりとなった叔父に財産分与のことで騙されたためと書かれてあります。〝普段善人である人が突然あるときに悪人になる〟は小説内の先生の言葉ですが、この作品のひとつのテーマはそれといってよいです。この『こころ』という作品は、ここを発端に、さらにその人間の悪意の内部を深く抉って行きます。

 

 人は無意識に善人から悪人になる。

 先生がなにやら異質な性格をしていて、いわば意識的に善人から悪人になろうとすることがどうやらあると、この小説はだんだん読み取れていくものがあります。それはゆえに不可解で、残酷な面を持つというふうに。
 主人公が対峙するこの先生という人はとにかく不思議な印象にずっと満ち満ちているんですが、先生は経済的なことは人を狂わすといい、反面で人の愛情に対しては純粋なものがあるのだと信じている一面があるようですが、そこにもなにかしこりを持っている。先生は〝無意識の偽善〟を平気で行っている人間が、まだしも上っ面では信じているその〝愛情〟を明晰化するために、人生をかけて悪人たろうとしていくふうなことが、だんだんわかってきます。
 よく漱石の小説を解読するのにいわれる〝無意識の偽善〟というものがあるんですが、『こころ』という小説のキモはまさしくこの点にある、と僕は思います。その前に、作品にはもうひとつ重要なこととして取り上げられているものがあるので、言及します。
 主人公の父親の死がこの小説には暗い影を落とすように背景に潜んでいるのですが、「死」という最も親しみ深く、また人間にとって不可解でしかないその根源的な問題が、この作品では〝明治天皇崩御〟という具体的な日本の「歴史の死」というものと重ねられて描かれています。実際『こころ』については、この歴史性について、いろんな意見があるので、ひとつ引用します。
 例えば戦後に活躍した私小説作家の藤枝静男は、漱石の作品の中でも『こころ』が多くの人に愛されつづけている理由は、先生の死が日本特有の世間を意識したものとしての死、とにかく、はっきりした理由はわからないのだけれど、申し訳ないような、世間に対する漠然とした罪悪感にあるものとしての死だ、と対談集でいっています(『作家の姿勢 藤枝静男対談集』藤枝静男)。漱石は、そのような〝日本的感性〟をここで強く意識していたことは疑いないと思います。
 ここに読みとれる「先生の死は明治の死である」というのは、『こころ』という小説を論じるときにまったく当然になっている事柄で、先生は書簡の告白の中で「明治という時代が終るから自分も死ぬ」と確かにいっているからです。漱石もそう思って書いたのです。しかし、これはこの小説の一面にすぎません。この小説は先の金銭の問題を絡めて、極めて卑近で人間らしい感情の機微と、歴史の問題を重層的に絡めて、もっと人間の深いところまで描こうとしていくんです。テーマは死です。この先生の死は不可解です。なぜ先生は死ななければならないのか。
『こころ』は真実にたどりついたと思っても、するすると指先から逃げていくような不思議なところがある。幾重にも謎が重層的に絡み合うような性格を潜めていくんです。

 

 Kの自殺と、妻との意思疎通の不和

 そもそも自殺したKそのものも作品中最初から謎めいています。これは小説の最後になってもはっきりしません。
 先生が死ぬのは、親友だったKが自殺したからです。具体的に先生が自分が死ぬ理由を述べているところもあるんですけれども、「私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」といっているに留まっています。そもそもKの自殺もそうですが、先生の自殺は大きな謎を含んでいます。
 先生は自分のKに対して行った策略を妻にはいいません。先生は以前下宿していた先の娘さんに惚れていたのですが―彼女が先生の今の妻です―、どうもKも彼女に惚れていることがわかってきて、先生はさっさと彼女の母親に自分の気持ちを打ち明けて、仲を取りまとめてしまったのです。罪悪感があるわけです。
 いったところでよく告白してくれたと涙ぐむ様子が自分にはわかるといいながらも、先生はKについての自殺の経緯を妻には話しません。妻が「わたしのなにが気に入らないのですか?」と訴えても、夫婦生活がどんどん瓦解していっても、先生はいいません。しかし、これは先生が自分の身を守ろうとしているからではないのです。
 この世でたったふたりしかいない愛すべき人間にも感情が繋がらないことは苦しい、といっている先生のこの境地は、一見矛盾したものに読み取れます。欺瞞にも見えてくる。とにかく複雑な境地に達しているのは確かです。
 この『こころ』という小説が悲痛なのは、まさしくそのはっきりしない人間の〝こころ〟を、明晰に言語化しようとしたところにこそあると思うのです。人間が最後の拠り所とするその夫婦の愛情でさえ、猜疑心や裏切りを免れえない。そしてまさしくそれこそが〝こころ〟の真実であるということを意識的に暴いて行くんです。

 

 明晰たろうとする先生

『こころ』というこの小説は、とにかくいろんな謎が散りばめられているのですが、先にもいったように、謎が謎を追っていくような複雑な構成になっている。その前の漱石の後期三部作の『彼岸過迄』『行人』の中でも最もサスペンス性の高い作品です。
 最初にこの小説は未完であるといいました。上中下と、作品は一見序破急の構成をとっていますが、実は起承転結の「結」である部分が、この小説では書かれて いません。しかし、だからこそこの小説は完成している構成と内容を持っているといえます。
 漱石はこの小説でかなり現実に迫ったことをいっていると僕は思います。同じような作りのこの前の『行人』では、うまく「言葉」にならない〝狂気〟として抽象的なものに向かって小説が混乱していくのに対し、『こころ』で示唆されているのは、先に述べたように、具体的な歴史的な感覚と同時に、下世話で美しくて生々しい人間の生活に根ざした感情です。
 もう少し見ていきます。明らかにされる先生の過去というのはこういうことでした。

               ※               ※

 先にもいったように、今妻となっている大学生の頃東京で下宿をしていた先のお嬢さんが絡んだ事件がありました。先生とKは小学時分からの親友であり、寺の子である生真面目なKは親の反対を押して、自分の道を進もうと故勘当されてしまいますが、それを手助けしたのが先生でした。金などは受け取ろうとしない誠実なKに、だったらせめてと、自分といっしょの下宿に住むことを先生は提案するのです。そこで事件が起こってしまったのです。
 Kがその家にいるお嬢さんを好きになってしまう。Kはもともと学問優先で、恋愛などバカな人間がすることだと軽んじていた、そんな誇り高い人間だったゆえに、先生は衝撃を受けてしまいます。最初に出会ったときから、先生もまたお嬢さんに恋心を寄せていたこともあったからです。
 先生は複雑な感情をもちはじめます。「お嬢さんを好きになった自分のことをどう思うか?」とたずねるKに、「君は人間としてバカだ」というようなことをこたえます。異性などにうつつを抜かしている場合ではなく勉強を一番に置かなければならないはずで、生真面目なKにとって、親友であり恩人でもある先生のその言葉は、とても身に染みる言葉として響いたようです。先生はKにそのような言葉を実は敢えていったのです。
 そして先生は突然お嬢さんの母親に娘をくれといいます。元々お嬢さんも先生のほうに好意を抱いていたし、母親もその気でいましたから、あっけなくふたりの婚約は成立してしまいます。そのことを知ったKは絶望して自殺してしまうのです。「自分の力が足らなかったのだ」というような言葉を遺書に残して、Kは自ら命を絶ちました。

               ※               ※

 Kの死後、先生は夢遊病者のようになって生きていきます。仕事をしようにも、「おまえにはなんの資格もない」とどこからかそんな幻聴のようなものが聞こえてきて、先生はなにもしない人生を送るようになっていきます。しかし、罪意識に苛まれるといってもまったく妙な話であって、とても明晰な先生であるのだから、そんなことをしたら、その後自分の人生もまたどうなるかはわかっていたように感じられますし、そもそもKへの策略にしろ、妻に真実を伝えないことにしろ、先生はこうなることをぜんぶわかって、そのようなことをしたように思えてくるものがなんだかあるんです。Kの自殺でさえも、先生は予期していたことかもしれないというふうに。

 

 無意識の偽善について

『こころ』という小説が謎めいているのは、先生がなぜ自殺しなければならなかったのか、Kはなぜ死んだのか、夫婦はなぜ意思疎通できないのか、いろんな要素があるんですが、考えめぐっていけば、なぜ先生は「意識」的にそのような人生を送ったのかということに行き着かざるを得ないと僕は思います。
 先生はKが傷つくとわかって、意識的に娘さんをくださいと下宿の母親にいいました。妻には自分が苦しんでいる敢えて内容を話さず、敢えてKの後を追って死んでいこうとしているのです。
 漱石は人が絶対だと信じている「愛情」にも作為性があると知って、意識的にそこにメスを入れていきました。
〝無意識の偽善〟のもっとも具体的かつ、根源的な事柄をここで暴こうとした。無意識の偽善とはいったいなにか?

               ※               ※

 人が意識的にではなく、無意識的に行っていることは、明確な悪意とは違います。しかし当事者の悪意がないものでも、被害者がそれを悪意だと感じて傷ついてしまうものがあります。実はそれこそが本当の〝暴力〟の正体です。
 先生やKはそういう無意識の偽善に敏感だった人間であったことは間違いありません。それを悉く意識化できる明晰な人間で、彼らが無意識の偽善を行わない人間だとはいいませんが、Kや先生は、そのことで人生が狂うほどの根源的な傷を負ってしまっていて、それを解消できていない人間たちであったことは確かなんです。
 先生が死ぬのは、そのような拭い去れない過去を持ったからです。(先生がKについてそういっている箇所があります。しかしこれもまた不可思議で、明らかな解答としては読めません。)先生はそのような解決不可能な現実を敢えて再び持つため、そんなことをした、というわけです。
 自分の思いが伝わらないなにかをどうしようもなく胸の奥深くに持ってしまっている人間がいるのです。その思いが伝わらないという苦しみが、こころの正体です。愛し合っている人間同士ならわかりあえるはずだ、というその感情こそが「暴力」です。そしてKは娘さんの問題でそれを自覚させられ、先生もまたKの自殺によって、はっきりとそのことを自覚したのです。
 Kが持ち、先生も育んでいた、そんな誰とも意思疎通できない、死ななければならないほどのこととは、そういう偽善を知ったゆえに起こったこころの苦しみです。
 無意識の偽善とは、自分一人だけが持ち得ていて、それが他人に伝えられないというものです。文学的にいえば、意思疎通できるはずだという「言葉」というものこそが、彼らを抑圧して排他するのです。
さらにこれはどのようにも具体的解釈は可能で、たとえば歴史的にいえば、「近代」という時代が、それ以前のものを捨て去ったという、漱石を呼称するときによくいわれる〝明治時代の知識人の苦悩〟という文学的な事柄と通じますし、親戚たち両親たちの金にまつわる卑近な人間的な欺瞞を知ってしまったということにも通じます。とにかく先生にしろKにしろ、人が無意識に行っている〝欺瞞〟に深く傷つき、それを解決できなかった人間なのです。
 この作品で先生が妻に真実をいわないのは、よく告白してくれました、と妻がそういったとしても、妻と意思疎通できたことにならないからです。「死」でしか、意志疎通できないものがこの世にはあるのです。漱石が対面した、近代化によって〝失われた日本〟というものは、実際そういうものでした。

 

 近代に馴染めなかった漱石の苦悩

 先生は手紙の中で、告白しない理由として、「純粋な妻を汚したくない」という言葉を述べています。
 この下りは『こころ』において、もっとも悲痛極まりない箇所だと僕は思います。人生を共にする伴侶である妻にもそのような、Kや自分のような心の苦しみを持ち寄ってもらえばいいじゃないかと思いますが、先生はそうしたくないというのです。いずれ今はまだ純粋な妻もまた、無意識の偽善を振舞う人になっていく。愛しているから、少なくともそれを自分の手ではしたくないのです。
 偽善を知った過去を持ってしまった人間は、それを捨て去ることはできません。一度知ってしまった偽善をなかったことにはできません。傷を負わない人間はそれを素通りして生きていく。できない人間は、死をもってしか解消できないのです。もちろん死ぬのはどのような理由があろうと逃避です。戦うべきですが、敗れる場合があるのです。Kなどもそのような情熱に燃え、明晰で、秀でていた人間だったに違いありませんが、実際Kは敗れ、そして先生もまた敗れたのです。

 

 現代を生きる漱石文学

 殉死という言葉も、この『こころ』という小説中には使われています。先生は最終的には死ぬことを選びました。そうすることで、この世に存在する一切の偽善ではないなにかを見出そうとしたのではないかと、僕は思うんです。実際死んでしまったKに対して、死を持ってしか詫びようがないという先生の結論が書かれています。そのとき初めてKとのあいだにおいて、欺瞞のない愛情を先生は繋げることができたのかもしれません。
 この作品の前に書かれた『行人』が未完で終っているように、『こころ』もまた一見未完で終っています。でも未完だからこそ、謎が解決しないからこそ、この作品はひとつの完成に到達していると僕は思うわけです。

               ※               ※

 夏目漱石という作家は、1867年(慶応3年)に東京に生まれ、33歳のとき、英語研究のため文部省によって、英国行きを命じられました。そこでひどい神経衰弱に悩まされました。「夏目は発狂した」といわれます。帰国してから、神経の治療のために、俳人である高浜虚子の勧めで『吾輩は猫である』を書くんですが、それが思わぬ好評を博したことから、朝日新聞のお抱え作家となり執筆活動に入っていきます。
 漱石が明治期の日本で書いたのは、近代化によって失われようとしている、近代以前の文学でした。江戸時代に日本が持っていたような文学、或いは漱石の専門分野であった、もう過去になってしまった英文学です。
漱石にとってはそれらが文学であり、新しい時代に政府によって認識させられていった明治の文学は文学ではありませんでした。漱石のような人間には、近代化における明治政府という力が、なによりそれに自然と先導されていく日本国民が、無意識の偽善者たち、だったのです。
『こころ』に描かれた、この先生の手紙を受け取った若い主人公は、このあとなにを思うのか。
 漱石の小説が今もなお現代に人に読み継がれているのは、無意識の偽善という問題が明治という時代に限定されたものに限らず、人間の普遍的な問題であるためにほかなりません。誰もこの問題を解決することはできない。漱石はこの作品でそれを極めて明晰化して書いたのです。無意識の偽善を生きた漱石の主人公たちは、今の未来を生きている、現代の私たち自身です。

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