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小僧の神様・城の崎にて 志賀直哉

 

 これは志賀直哉がおおよそ30代のころに書いた、中期にあたる代表的短編を集めた作品集です。1917年から1926年くらいまで、年号でいうと、大正6年から昭和にちょうど入る時代です。志賀直哉という人は日本の近代小説における「小説の神様」といわれ、その簡潔な作風から、文章の達人ともいわれる人ですが、この作品集を読むと、そんな一方向的なイメージとは違って、なかなか考えさせられるものがあります。『暗夜行路』の前身的作品だった〝時任謙作〟を書こうとして挫折し、またその後に再起をはかり、十七年かけて完成することになる唯一の長篇小説、その『暗夜行路』の端緒に辿りついた経緯と、これらの作品群の執筆は時期が重なっています。

 

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

 

 

「城の崎にて」について

 志賀直哉武者小路実篤有島武郎らといっしょに「白樺派」と呼ばれた作家です。
 彼の代表作は『暗夜行路』というのが、今は通説になっていまして、『暗夜行路』は、漱石の勧めによって、志賀が取り組んだ唯一の長編作です。この短編集の最初に収められている「佐々木の場合」は、その『暗夜行路』の挫折した後に、彼が再び短編に舞い戻った、いわば復帰作というべきもので、直哉は幾らか晴れ晴れとした気分となって、再び自分の得意なものに向いはじめたといっていいんじゃないのかなと思えます。この前に漱石が死んでいます。この間三年以上直哉は小説を発表していません。

『暗夜行路』については、また別の記事で書きたいと思うんですが、とにかく直哉は『暗夜行路』を書くのに苦心したんです。結局長い歳月をかけて、唯一のその長編を完成させましたが、とにかくここでは、その前に一つの境地に達した「城の崎にて」に、ある極めて独特な視点が顔を覗かせていまして、そのことについて書きたいと思います。
 この作品集では表題作の「城の崎にて」と、あと「小僧の神様」が傑出していると僕は思うんですれども、とにかくそこでひとつの古典的形式を作りあげていると思うんです。私小説・心境小説というものの本質をあますところなく露呈しているといってもいい。「焚火」「真鶴」「雨蛙」なども、それぞれ独特な作風を手にしていていいと思います。井伏鱒二太宰治阿川弘之庄野潤三など、志賀の直接的な影響を感じられる後発の作家たちを、そこかしこに強く感じます。とにかく「城の崎にて」がなにより優れているのは、病的なまでに描かれた簡潔性にあります。
 文章が何ゆえこれほどものを見る清澄度が高いのか。そこに通常小説で書かれるはずの「主観」がないからです。

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 事故に出会い、体を患って山に休養にきた〝私〟が、そのかりそめの場所で、幾つかの動物の死骸に出会います。瀕死の目に合った療養中の彼は、そこに自然と生と死の境界の危うさを見つめます。これは直哉の実際の体験から書かれたものです。ここに表されている抒情は、生の中にこそ死の領域を垣間見るという特異な視点です。その流動的で俯瞰的に表れる視線は、フランスの後期印象派の画家ポール・セザンヌにひどく接近しています。

 山手線に電車に跳飛ばされて怪我をした。その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない が、そんな事はあるまいと医者に云われた。二三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく用心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢 できたら五週間位居たいものだと考えて来た。
 頭は未だ何だか明瞭しない。物忘れが烈しくなった。然し、気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持ちがしていた。稲の穫入れの始まる頃で、気候もよかったのだ。    (「城の崎にて」 志賀直哉)

 生と死の領域を両方含む、現実ではありえない両義的な視点というべきものが、「城の崎にて」では表れています。生の中に死を汲み尽すことが可能な視点ともいうべきものです。
 特異なのは、ここには現実にあるはずの「客観」「主観」の区別がなく、見ることの行為そのものが、いわば〝主題〟となっていることです。
 文章内において極端に感情が削ぎ落とされ、視点が分散されて隔絶したものとなり、叙情は存在しません。人間の感情などは、現実の枠組みからもたらされるひとつの制度に過ぎないかのように省かれています。現実的な意味でのちっぽけな「私」は否定されています。それは現実を見つめる強度がそうさせるからだとしかいえないんですけれども、〝からっぽの現実〟を見つめると、そこに内包されていく本質は、〝私〟に常に回帰されるようになっていて、「もの」の存在力じゃなく、現実を視る強度だけがひたすら研ぎ澄まされていきます。そして、そこにこういうぽつぽつとした感慨が挟まれるわけです。

 生きている事、死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。     (「城の崎にて」 志賀直哉)

 いったいこの言葉は誰が語っているのか。作者ではないのです。この一切の叙情を否定したところで現れる仙人めいた声は、言葉、です。

 

 長編小説と志賀直哉

 よく知られているように、志賀直哉の書いたものは、短編ばかりでした。彼は長いものが書けなかった作家だったといわれています。彼の長編は『暗夜行路』一作だけです。そして代表作は、その『暗夜行路』というのが今は通説になっています。
『暗夜行路』も、長篇の形式に則っていなく、短編の集まりである、という評価が一方にあるみたいです。つまるところ、志賀直哉という作家は、日本近代小説において、ひどく特異なポジションを持っているのです。
それは心境小説という短編の存在を示しながら、『暗夜行路』という奇形的な長編小説も書いた作家だということです。
 志賀直哉は1883年(明治16年)に宮城県に生まれました。有島武郎武者小路実篤らとともに「白樺派」と呼ばれ、大正時代に新しい文学の担い手になっていきます。直哉の生涯の問題は、父親とキリスト教だったといわれています。直哉の文学的出発の根幹に、強大な父親との軋轢というべきものがあったということは重要です。後に、キリスト教へと彼自身向かうわけですが、そこに自己を留めることはできませんでした。直哉は外面にも内面にも居場所をなくし、拡散する自己へと、言葉を預けていくしかなかったということがあった。それが彼の文学の独創性に繋がっています。そしてこれは西洋から輸入された「小説」というものに対しての違和感としても強く働いていきました。
 彼は自らの短編小説を良しとしながらも、それを相対化しようとした試みに一生をかけた作家だと僕は思います。作品は確かに安定しているんだけれども、彼自身はほとんど狂気の境をさまよっています。彼は自身の短編をよしとしながらも、長編小説を書こうと常に思っていたところがあった。
 直哉の小説はリアリズムですけれど、よく見ると、主題がはっきりとつかめない。描いた作者の視点が散らばっているためです。正確に読み進めようと凝らすなら、いったい何に焦点があっているのか、わからない。説明の省略法も、そのわかりにくさに拍車をかけています。
 直哉が他の自然主義作家と意を異にするのは、他の作家が、あくまで〝中心的〟なものへの誘惑を絶てなかった、というところにあったのに、直哉はあっさりとそれを退けたところです。だからといって直哉が他の作家よりも優位にある、ということの証明にはならないんですけれども、とにかく彼は心境小説という独特な作風を開拓しました。そして短編が独断場である私小説作家として、それが己の得意分野として誇示して、日本の近代私小説を開拓しながらも、一方で西欧の文脈に挑むように長編小説を描いていったのです。志賀直哉という人は戦って苦しんだ作家です。

 

 主題の否定としての私小説

 僕が思うに、志賀直哉という人は、当時、西洋の模倣の上に成り立つ小説がはばを効かす日本の文壇において、まず強い違和感を覚えたんだと思います。自然主義といわれる小説がいうところの〝ありのまま〟というものに反発を覚えた。直哉は本当の自然というものを、セザンヌような後期印象派の画家から学んだのだと思います。さらに長編小説においてもそれをやろうと試みたのです。
 短編はその非人称、無時間など、長篇小説の持つ空間性と拮抗するところにおいて非常にその強度を保ち、それゆえ可能性として独特な方法意識があるわけですが、直哉はそれをさらに発展させる方向へも手を伸ばしていきました。そもそも身辺雑記という事態を安易にやりすごすことはできません。身辺雑記として小説を書くことは不可能なんです。直哉は短編で可能にし、長編でもそれに取組んで、さらにぶっ壊れた形で成し遂げた。弟子の藤枝静男もさらに奇形的な私小説を書いて直哉の遺伝子を継承しています。
 私小説といえば、『蒲団』を書いた田山花袋が有名で、いわゆる日本の自然主義小説から私小説へと流れる日本のリアリズムの文脈はこっちにあるんですが、一方志賀直哉という人が、私小説であっても花袋とは違った、心境小説というものを開拓していった。そして心境小説・私小説の独断場である短編だけではなく、長編も書いたのです。
 この作品集を読めば、志賀直哉という作家がいかに独自の作風を持った作家であり、私小説という通常のイメージから遠い人であるのかがわかると思います。
 作家自身を主人公に置き、その生活を題材にとっているんですけれども、それはあくまで「視点」を借りるという位置に留まっている。見聞や想像力、昔話へのアプローチなど、スタイルも多様で、語り口も様々です。名文家といわれる志賀直哉のその文章がとても晦渋で読みにくいものであることはすごく重要で、別に難しい語彙が使われているからではなく、それは視点が分散しているためです。
 そもそも私小説の特徴は、「中心」の否定だけではなく、「題材」の否定にこそあったといえます。語り手に〝中心〟が宿っていなく、視点が分散しており、物語の起伏は削がれ、イメージが全面に押し出されて、主題というものが消されている。
直哉の無意識で執筆する省略の方法も、さらにそのわかりにくさに拍車をかけました。直哉は安易な「私」を否定しました。そもそも「私小説」を否定しているんです。中心を否定する短編というジャンルを扱ったんですけど、長編も書いたんです。

 

 前衛作家としての志賀直哉

 志賀直哉という作家の作品に窺われる絶対的な自我肯定を、安定しきった、揺さぶりには欠ける自己とか、逆にまたそのような達観した姿勢を、小説の神様、といって崇めてしまう風潮は、〝中心〟との苛烈な格闘を彼方に退けている姿勢だと僕は思います。
 彼は一面で徹底的な未分化の作家であったことは否定できないけれども、常に孤軍奮闘する反逆の作家でした。当時志賀直哉を最も的確に評価していたのは、芥川龍之介です。
 彼は筋に頼らなければ作品を書くことができない西洋の作家に対し、志賀直哉を極めて前衛的な作家として認知しました。谷崎潤一郎との「話のない論争」は有名です。芥川は印象派の画風に直哉の小説をなぞらえましたが、芥川はやっぱり頭がいい人だったんだろうな、と僕は思います。

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