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伊豆の踊子 川端康成

 

 今回も声を高らかにしていいたいです。日本近代小説の最高峰は川端康成です。なぜ彼が幾多数多の文豪たちを押さえて、日本文学で最高の小説家なのか。それをいうために、今回のレビューは参りたいと思います。
 新潮文庫のこの『伊豆の踊子』は川端康成の初期作品集で、表題作の「伊豆の踊子」は文壇登場作です。ここにはほかに「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」の計4作品が収録されています。
 川端の小説を〝抒情〟といったりするのをよく耳にすると思うんですが、ここにはひとつの「転倒」が潜んでいることをが大事です。それはもう一方でいわれている〝末期の眼〟といういいかたのほうが、その資質をいいあてていると思えるので、川端を評するにこれがとにかく重要だと僕は思います。
 例えば、「伊豆の踊子」に描かれているのは、〝抒情〟ではなく、正しくいって〝憐憫〟です。

伊豆の踊子 (新潮文庫)

伊豆の踊子 (新潮文庫)

 

 伊豆の踊子」について       

伊豆の踊子」は、旅芸人の幼い踊子に心を寄せる二十歳の青年が主人公です。彼は幾らか恵まれているといえる裕福な身分であり、伊豆にふらっと一人旅に出た折に貧しい旅芸人たちと出会うのですが――実際は、それほど彼らが生活苦ではないことが、やがてわかってくるのですが――青年が彼らのお共をするのは、そこにある種の憐憫を感じたからです。彼が何ゆえ、まだ十四歳踊り子に思いを寄せたのかといえば、その〝処女性〟に秘密があるといえます。ある種いかがわしく下世話な商売をしなければならない、その旅芸人の生きる姿の中に、主人公はとても純粋無垢なものを見つめたのです。
 このような上方から下方を見る川端の視線は、自身が一切傷つかないということが重要です。彼は一貫して傍観者の位置にとどまっています。この世界の不幸は、彼の視線を通して、風のように通り過ぎるだけです。そしてそれをやり過ごすのを見た後、彼は自身の孤独が、世界と和解したような感覚を持つわけです。
               ※               ※
伊豆の踊子」には、何処までも彼らと旅をする主人公に対し、旅芸人たちが一同に「彼はいい人ね、とってもいい人ね」と感を漏らす場面があります。これが川端を評するによくいわれる〝末期の眼〟というもの正体です。この誰 にも批判されない孤高の視線の資質をさらに研ぎ澄ませて、川端文学の本領がさらに発揮されていきます。
「禽獣」のような、一見現実の残酷さを物 語ったような、けれども少しも血が流れていない物語をあられもなく作品化したとき、川端文学の突出した美意識と同時に狂気的なその特質さは、さらに露わになりました。

 

「禽獣」について
 初期作品の中で川端のその才能が、最も著しく炸裂しているのが、たぶんその「禽獣」だと僕は思います。これは志賀直哉の「城の崎にて」と、一見、良く似た性格を持っているんですが、ぜんぜん違っているのが面白いです。
 作家を示す〝彼〟は、鳥を飼うのが趣味です。その鳥の死に行く様子を綴りながら、己の死生観を語るという構成になっているのですが、これは純粋な意味でのエッセイといってもいいのです。しかし、同じエッセイっぽくても、志賀直哉の〝私〟の視点と、全く対極の姿勢を示しているといえます。
 志賀の描く私小説の「私」を〝無私〟とかいっているのを耳にしますが、確かにそれは間違っていない感覚だと思いますし、彼が小説の神様といわれ、近代小説史上、日本を代表する作家のように呼称されるのはわかりますが、無を体現していても、それは純粋な意味で日本的な素質とはいえません。その観点からいって、川端の〝無〟の視線はすごく日本的な感覚を持っているといえます。
 例えば永井荷風石川淳らが、近代以前の江戸の情緒や職人芸を担おうとした日本的感受性を継承しているとするなら、川端康成はさらにそれ以前の日本的感受性を継承しているといえました。川端は文字通り「近代」という時代を象徴する小説家です。そして脈々と古来から受け継がれた日本的資質を備えた稀有な作家でもあるのです。

 

 末期の眼について

 話は脱線しますが、〝末期の眼〟というものですが、これはどういうものか。
 どのような人生の災難が振りかかろうととも、そこから一切の難を逃れようとする方法といったらいいんでしょうか、とにかく他人を見つめながら、そこに生身の存在がまったく感じられないような視線です。?? 困難から眼を逸らす、というような一抹の罪 意識の痕跡が残るものでもなく、それがはっきりと見つめている視線なわけで、とても手の込み入ったコミュニケーションの方法といえると思います。川端康成はこの視線を自身の文学基準にしました。
伊豆の踊子」に描かれたように、周囲には彼が率先してその困 難や不幸に身を投じているように見えるので、その悪意が感じられません。というより、まったく温厚篤実のように見えるわけで、これは、横暴を振るうはずの権力者が、下級の者に優しかったりする感 覚、例えば「政治的な配慮」などと似通っています。彼は困難に歩み寄ります。そして彼はそれを慈しむことで、あらゆる人生の矛盾を解消しようとするのです。
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「温 泉宿」は、「伊豆の踊子」に表れたそんな視線が、曖昧宿に住む地方の村の娼婦たちに注がれる話になっていて、川端の視線は、世間の片隅に必死に生きる女性たちの姿を、さらに色濃く慈しみの感情の果てに注ぎこんでいます。ここに描かれる死んだものへの〝豊かな 抒情〟は、美しく、儚いです。そこにあるのは、「伊豆の踊子」同様、〝無垢なるもの〟への共感です。
「抒情 歌」は――これについてはこの新潮文庫版の解説の三島由紀夫が、「川端康成という作家を論じるにあたって、再読三読しなければならない作品だ」といっていますが、僕もその通りだ と思います――この告白調に綴られる女性の主人公は、実は死んだ者へ語りかけているもので、これはまさしく死んだものに対する慈しみに他なりません。 そして実際は、この語り手が〝死者〟なのだということです。
 いわば、過ぎ去ってしまえば全て綺麗なもの、といった〝末期の眼〟において、全ては死 んだものとして語られます。曖昧に過去の郷愁の中に葬り去られていく、その死んだものへ語りかけるという方法論を、逆説的に、自らを〝死者〟とする発想――つまり、 何者にも歩み寄らず、そこに自己を投影する虚妄を見て、世界との和解を心得ようとする――は、全てを美しく、無垢なるものへと昇華させ、人生の難を乗 り越えていくのです。

 

 川端康成という特異な作家

「禽獣」に戻りますと、たとえば、志賀直哉という作家の視線がマゾヒズムを超え、自ずと言葉そのもののフェティッシュに同化していく類のものであるのというふうにとらえるならば、川端のそれは、あくまで語り手の「私」に根ざしているところが特徴だと僕は思います。
「禽獣」に描かれた、生も死も同等にとらえ、死が素っ気無いほどに投げ捨てられて行く素振りは、その生の中に死が胚胎する現実の残酷さを語っているのではなく、「川端康成」という人間の残酷さを実は物語っているのです。同じ自然を語っても志賀直哉は自然そのものを語ろうとしたのに対し、川端康成は自分のことを語っているわけです。
 しかし、これは単に「川端ひとりの視点」に留まらないのです。この特異な川端的視点は、ある意味で万葉や古今の和歌や『枕草子』のような随筆である古来の日本文学の資質を引き継いでいるといえます。その「私」が、単なる個人の「私」にとどまらず、それはわたしたち日本人の「私」と通じているということなんです。これが日本文化的な特質について、〝無〟というものとも共鳴していくんですけれど、それについてはさらに若干の説明が必要だろうと思います。

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 日本人が明治時代に他のアジア諸国と違い、欧米の列強諸国と肩を並べ近代化に成功したのは西洋的な意味での〝アイデンティティの擁立〟という姿勢を積極的に導入したからではないことは誰もが知っていることだと思います。日本は西洋から民主主義を導入する以前から、すでに民主主義を持っていました。
 列強がうごめき植民地支配が著しかった西洋的なものとは違った、天皇を中心とする島国の極めて独特な民主主義というものです。この観点から、逆説的にアジア的思想を体現するものとしての日本という近代国家の風貌が見えていったわけです。
 日本的特質の〝無〟というのは、本来存在しないものを強烈に信じてしまう、感受性の強い粘着的な妄想性のようなものといっていいと思えますが、繋がりが不明瞭で、他者がいなく、根拠がない感じのものです。これはアニメや漫画の性格にも通じています。確固とした存在性を誇示することもなく、逆にそれへの批判を抱擁する感覚もなく、ただそこに〝在る〟ものとして存在するような感覚、といったようなものです。
 欧米は常に対立構造や論理的発想で、ものごとを捕えようとしますが、日本は自然と融和する形でものごとを捕えようとします。この根底には、人間とは自然の影響下を逃れられず、死ぬべき存在だという有機的な感受性が根底に潜んでいます。科学的根拠や虚構の物語をねつ造するまでもなく、自然と無の存在としての人間の本質を、日本人は持っているわけです。
 さらに明治維新以降に育まれた〝天皇制〟が、このような転倒意識の中で、「近代国家」という名のもとに形成されていったことは特筆すべき事柄です。実は天皇は決定的な権力を持ってはおらず、同時に、批判することも受容する資質も持ち得ないひどく曖昧な権威です。厳密にいって、それは権威ではありません。
 天皇は日本の中心でありながら、日本国の権力の中枢には存在していません。それはなぜか、というのが愚問であって、中心にいるからこそ、それは権力を持たないわけです。それは国民の中心でありながらも、そこには何もない――「現実」と通じるものがない、つまり明確な「権力」を持たない――ものを体現するという、欧米から見れば不可思議な存在性を放ち、そしてその中心の感覚は近現代を生きる日本国民一人一人の「私」たちとも通じています。
 集団的に秩序を守ったり、会社に忠誠を尽くすような無私的な性格が、日本人の性質としてよく取沙汰されますが、川端康成の感受性はこういう日本的特質とひどく通底するものがあるのです。それは世界的に見てもかなり特異な感受性だということです。

 

川端康成と日本近代小説

 川端康成は1899年に大阪に生まれました。同じ頃に活躍しはじめた横光利一といっしょに、その現代的な作風から「新感覚派」と呼ばれ、自然主義小説、白樺派につづく、新しいムーブメントの作家として、昭和に入った時代に、文壇の一翼を担っていきました。
 川端はのちに「文壇政治家」と異名をとるほど、日本文学の中で影響力をどんどん強くしていき、1968年に日本で最初のノーベル文学賞を授与されますが、72歳のときに、ガス自殺を図って亡くなります。川端康成の作品に終始流れていた〝末期の眼〟というのは、日本の文学が古来から持ち得ている資質を脈々と受け継いで、近代国家となった日本において現れたひとつの美意識の極点です。川端はなにも日本的美を礼賛し、儚いものに共感して、それを美しい文章で書いた、というような単なる抒情的な作家ではありません。
 文壇の権力をあっという間に手中に収め、戦後にノーベル文学賞にまで上り詰めたその経緯こそ、なによりその時代、「日本近代」という性格がどのようなものであったか、それを体現しているといえます。もちろん川端の文学が素晴らしかったということも大いにあるわけですが。
 西洋の人たちが、当時川端の作品に〝驚嘆〟したのは、そこに「西洋的」な意味での近代小説が描かれていなかったからです。まったく異質なものとしての芸術の可能性が表現されていたためです。そしてそれはとても豊かな文学であり、同時に日本が豊かな国だという証拠でもあったということです。日本の抒情性や無の感覚が、その末期の眼を通して表現されていたのです。
 つまるところ、川端の文学的特質とは、平安文化から連綿と受け継がれている日本文化の持続的性格にあります。それを欧米文化を基礎として成立したはずの日本の近代文学において、まったく西洋とは異質なものとして表しました。重要なのは、それが日本的文化への退行じゃなく、西洋の文学を超えてしまう姿勢をとっていた文学だったということです。
 川端康成は豊かな日本という国における世界に稀に見る特異な作家だということはとにかく断言しておきたいわけで、それは古来から日本が豊かな国であり、豊かな文化を持って、その豊かな感受性は千年以上の長き歴史にも渡って脈々と受け継がれているということなんです。

 

 サディズム文学としての川端康成

 川端の血縁性を求めるなら、やっぱり三島由紀夫だと僕は思います。三島を文壇に紹介したのは川端でした。ただ三島が子供なら、川端は大人くらいの器量の差があると僕は思います。川端の〝末期の眼〟はそれくらい凄味があるんです。
  作家性が純粋な意味での「無」=〝不在〟を示しているとき、たとえば志賀直哉谷崎潤一郎なら、必ずその者は、「現実」というシステムに対し てマゾヒストになっていきます、そこに逃れようもない、けれどもそこに立ち止まるしかないものを強く感じているからこそ、それは虚構やエクリチュールへと還 元するしかない、というのが近代小説の構造的特徴です。しかし、「禽獣」という傑出した作品に描写されたような川端的特質は、端的にいってサディズムなんです。川端文学の最大の秘密はここにあります。この次々と死を看取っていく作家の儚い視線は、自分が手下した情感であって、現実からもたらされ、それを暴ききった作家によるものではありません。隅から隅まで頭でできあがった文学なのです。アニメとかと近いんです。
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 川端康成の最高傑作は『雪国』だと、僕は思います。そしてこれは日本近代小説の最高到達点じゃないかな、と思っています。
 この『伊豆の踊子』は川端の最初の頃の作品集ですが、もうこの辺りで彼の文学的特質が恐れを知らぬごとくに湧き出ていることに、僕は驚かざるをえません。「昭和」という時代に入り、既に「近代」や「文学」というものが自明になったとき、強烈な作家性という意味で、川端のようなずば抜けた資質を持った者が日本の近代小説に現れてきたのです。これは日本の近代を考えるにあたっても、とても重要なことです。日本の近代化は本当に時間がかからず、あっという間に成し遂げられました。どうしてそれが可能だったのか。戦後の復興もそうです。
 とにかく日本の近代小説を読むのなら、自然主義の小説同様、川端康成の小説は決して避けられません。それは国家や歴史や日本の国民性と根深く連動しているのです。川端の小説は作家個人の資質を超えて、ほかのどんな作家たちよりも強く日本の特異な歴史性と結びついています。
 平安から続く日本文学とはなんであったのか。その有効性、正当性は、どのようなところに今帰すべきであり発展すべきなのか。それに取り組むのは、もちろんこんなちっぽけなレビューじゃとても無理で、ほかにおいても実際容易な仕事ではないと僕は思っています。

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