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白痴・二流の人 坂口安吾

 

  文壇デビューのきっかけとなった「木枯の酒倉から」「風博士」、若かりし二十代の頃の〝ファルス〟と呼ばれるそれら初期作品から、流行作家となった戦後の代表作「白痴」「青鬼の褌を洗う女」まで、年代順に八つの代表的作品を集めた坂口安吾の短編集。

 坂口安吾という小説家は、一言でいえば〝娼婦の作家〟だと僕は思っています。たとえば、ここに収められた安吾の代表作のひとつである「青鬼の褌を洗う女」には、その安吾の率直な人生観が、女性の一人称の独白体を通して、あますところなく描かれてあります。
 
 安吾の文学観とは、どのようなものだったのか。この文庫の解説で、奥野健男氏がこんなことを書いています。

 その意味では、坂口安吾は、ついに十全の自己表現の場を見いだしえなかった、永遠に未完成、未熟な悲劇の小説家といえよう。しかし失敗作を含めて、坂口安吾の作品の中に、未来の文学へのさまざまな貴重な実験や発想や方法、そして全人的なヴァイタリティをぼくたちは見いだすことができる。安吾の文学は未来への文学的可能性の宝庫であるのだ。(『白痴・二流の人』 坂口安吾 「坂口安吾 ― 人と作品」奥野健男)

 あるいはこんなふうにも書いています。

 しかしここでぼくが強調したいことは、坂口安吾は、近代日本の文学者としては全く型破りの異端者であったかもしれないが、日本人としてはけっして異常な存在ではない。むしろ文壇人の方が日本人全体から見れば異常であり、坂口安吾は典型的な日本人であった。普通の日本人を代表する、いわば日本人の原型であった。(『白痴・二流の人』 坂口安吾 「坂口安吾 ― 人と作品」奥野健男)

 これは安吾の文学について、僕も凄く共感する箇所です。安吾は、文学的には通説になっている事柄みたいですが、未完の作家であり、小説とエッセイを同等に評価しないといけない、というふたつの論調があるみたいです。筑摩の安吾全集は――文庫じゃなく全集のほう――実際小説とエッセイが区別されておらず、年代順に収められています。日本の近代小説では、小説とエッセイの明確な区分はない、と公言している作家――私小説作家――が多いのですが、違った意味で、安吾ほどこの区分の無効性を感じる作家はいませんね。

 

 坂口安吾の「堕落論
 そもそも坂口安吾という作家においては、初期の頃のファルス的小説から、私小説歴史小説推理小説、とジャンルは多岐に渡っていて、この人ほどカテゴライズしにくい作家はいませんけれど、小説家というより文学者、文学者というより、まさしく坂口安吾というしかいいようがない人です。
 戦後に一躍彼を流行作家にした有名な「堕落論」で、安吾は重要なことを述べているので、とにかくそれを書いておきたいです。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(「堕落論」 坂口安吾)

 安吾という作家は、人間とは、生きるとは等をやたら作品で連呼する人で、それは彼が本当の意味で人間に迫った人だった証にほかなりません。いみじくも「小説家」として歴史に刻み込まれている文学者坂口安吾のひとつの文学的特徴は、〝娼婦〟的感覚にあることは疑いなく、それは確固たるものから逸脱していく「堕落」と切り離せないというのが僕の坂口安吾に対する評価です。

 

白痴・二流の人 (角川文庫)

白痴・二流の人 (角川文庫)

 

 

「木枯の酒倉から」から「風と光と二十の私と」まで
「木枯の酒倉から」「風博士」は、安吾の初期作品です。その二作品には、極めて安吾らしい言葉遊びに徹した〝ファルス(ナンセンス)〟で描かれた作法が横溢しています。作品に共通する意識は〝戯作〟といえまして、いってみれば悪ふざけといったものです。
 戯作というのは、言葉から「意味性」をはぎ取って、言葉そのものの自由の獲得を狙ったといった手合いのもので、安吾同様、同じ無頼派石川淳などとも通底する意識です。このような作風が戦前の昭和の時代に次々現れた理由は、強大な文学的権威としてあったそれまでの「自然主義小説」に対する批判が高まったという歴史性が多分に影響しているといえます。師匠にあたる牧野信一がこの作品を絶賛して、安吾は文壇デビューすることになりました。
「紫大納言」は、後期の安吾には見られないくらいといったら失礼だけれども、とても完成度の高い作品です。こういう作品を見ると、高い技術的に処理できる作品も彼は描けたのに、後々は破天荒になっていった、となんだか感慨深いものがあります。
「真珠」は真珠湾攻撃を題材にした戦争小説で、これもよく整っていて、安吾は戦争小説もたくさん書きました。
「二流の人」は、豊臣秀吉の家来であった黒田如水に自己を投影して描かれた安吾歴史小説の代表作のひとつで、巷談調で描かれていて面白いことは面白いんですけども、ちょっと文章が晦渋で読みにくいかなという印象が僕にはあります。
「白痴」は「堕落論」とともに、安吾を戦後の日本社会で一躍時代の兆児にした出世作です。上手な作品ですが、僕はこれあまり好きじゃありません。良く出来た作品だと思いますが、図式的すぎて陳腐な気がしてならない。時代とともに風化せずにはおれない〝ハッタリ感〟が出過ぎており、「堕落論」を小説化したものなので、これなら「堕落論」でじゅうぶんだと思います。
 ひとつエッセイが収められていて、「風と光と二十の私と」です。講談社文芸文庫で、この作品を含め、安吾が若い時分の頃を綴ったものが集められたものがあって、これがとても素晴らしいです。最初に安吾を集中的に読みたい方は、この青春時代のエッセイ本が僕はいいと思います。
 それで、この作品集の最後に収められている「青鬼の褌を洗う女」ですが、僕は安吾の小説――歴史小説推理小説を除けば――、この「青鬼の褌を洗う女」がいちばん好きです。安吾の代表作のひとつであるのはもちろんですけど、安吾の重要な文学的特徴が如実にここには表れていると思っています。その重要な特質が、先に述べたように“娼婦性”なのだというわけです。

 

「青鬼の褌を洗う女」について
「青鬼の褌を洗う女」には、こんな一節が書かれてあります。

 私はしかし浮気は退屈千万なものだということを知っていた。しかし、退屈というものが、相当に魅力あるものであり、人生はたかがそれくらいのものだとも思っていた。(「青鬼の褌を洗う女」 坂口安吾)

「青鬼の褌を洗う女」はサチ子という女性の主人公が登場する話で、彼女は母親の束縛から逃れて、数多の男たちに体を許すようになっていきます。久須美という50代の男の妾となるのですが、浮気をやめることはありません。久須美が浮気を許すのです。
 久須美のところで働く田代という男、彼が惚れているノブ子という女、サチ子が浮気する相手であるエッちゃんというお相撲さんなどが、さらに登場します。それら人物は誰もが純潔と欲望とのあいだで苦悩している人間として描かれてあり、哀切さが滲んでいるのが特徴です。
 サチ子は戦争の空襲によって母を亡くしました。そこでいくつもの悲惨な光景を見たと書かれてあります。そんな彼女のキャラクター設定が、「母」=「戦前」、「サチ子」=「戦後」ととらえられていることは重要です。この小説はリアリズム小説ではありません。「サチ子」は明確には「戦中」だといえ、金の亡者となりながら女性に対しては聖なるものを見ようとする田代や、純潔をかたくなに守り通すノブ子らが「戦後」的人間として描かれてあるといえます。安吾がここでそのような図式をし、いったい何を描こうとしているのかは、これらの対比を見れば明らかでしょう。

 私は「一番」よいとか、好きだとか、この一つ、ということが嫌いだ。なんでも五十歩百歩で、五十歩と百歩はたいへんな違いなんだと私は思う。たいへんでもないかもしれぬが、ともかく五十歩だけ違う。そして、その違いとか差というものが私にはつまり絶対というものに思われる。(「青鬼の褌を洗う女」 坂口安吾)

 サチ子は強圧的だった母親の手によって最初は金持ちの妾にされる人生を歩まされたわけですが、彼女を自由にしたのは皮肉にも破壊的な戦争でした。彼女は母親の目を盗んで以前からも男と情事を重ねていたんですが、最初は反抗のようなものだったといえますけれども、戦争が終わると、久須美という自分を本当に可愛がってくれる男の妾となり、多くの男たちと体を重ねて、さらにその娼婦的性格を露わにしていきます。それでもまだ落ち着かず、男たちと次々情事を重ねていくのです。
 サチ子が多くの男と寝るのは単に淫乱だからか? 承認欲求のためか? 自己の欲望に忠実だからだといういいかたが正しいといえますが、そこに実はもう少し奥深いものが潜んでいます。

 

「青鬼の褌を洗う女」に内在するテーマ
「青鬼の褌を洗う女」に描かれたサチ子の内面にあるものとはなんなのか? これまで引用した箇所に見受けられるように、「絶対的」なものではなく、〝相対的〟なものにこそ価値を置くという性格が、彼女を突き動かしています。〝相対的なもの〟とは端的に「現実的」なもののことですが、数字的なものでは置き換えられないもののこと、といってもよいものです。数字的なものに置き換えられたときに初めて見出される、なにか、といってもよいものです。

 このわがまま三昧で一見たやすく男に体を預けるサチ子という女性像に、究極の〝娼婦的イメージ〟が次第に重ねられていきます。貞操観念が欠如した人間として描かれているのに、なにやら「聖女」として昇華されていく印象が漂うのです。彼女の奔放が単なる世間知らずで身勝手であるだけなら、そうならないでしょう。人生の回答を誰よりも求めてしまうからこそ、それを得ることができず、いつも不満足で、切ない感情を持て余して、そうなって誤解されて、そしてそんな彼女がなにかを見出していくものがあります。

 久須美は私のために妻も娘も息子もすてたようなものだった。なぜなら彼は、もはや自宅ではなしに私たちの海岸の旅館へ泊りそこから東京へ通っているのだから。人々はそのような私たちをどんな風にいうだろう? 私が久須美をだましたというだろうか。恋に盲いた年寄のあさましい執念狂気を思い描くことだろう。
 私はしかしそんなことはなんとも思っていない。息子や娘にとって、親なんか、なんでもないではないか。そして親が恋をしたって、それはやむを得ぬこと、なんでもないことだと私は思う。久須美もそんなことは気にしていなかった。私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。
 私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。
 しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。(「青鬼の褌を洗う女」 坂口安吾)

 サチ子が単に我儘な女でしかないのであれば、久須美の愛情にこたえるようなことはしないでしょうし、これは作品後半部分で、サチ子が自分の浮気を赦す久須美のことを考えるくだりの部分ですが、これを読めば久須美に対する彼女の愛はすごく純粋なものがあるのは明白です。にもかかわらず彼女は浮気を繰り返す。
 サチ子が「聖性」を帯びていくのは、彼女が地獄めぐりの果てにこそ、本当の純潔を見ようとしているからにほかなりません。聖性とは貞操を守ることに潜むのではなく、ほかの異性には浮気心を持たないところにあるのでもなく、「わたしは現実がすべてだ」ということをサチ子は繰り返しいうのですが、それだけではないなにかをその中に見ようとしていくところにあるのです。
〝人生の真実〟を見るために、彼女は「娼婦」というひとつの破壊的衝動を受け入れていくわけです。つまり彼女は〝他〟を拒まない人です。その根底にあるのは凄惨な殺戮光景としてある〝敗戦〟という現実的出来事にほかなりません。「私は野たれ死にをする」と口にする彼女は、最後、谷川で青鬼の虎皮の褌を洗っている光景をぼんやりと思い浮かべて、これが小説のラストシーンになっています。

 

 娼婦文学としての安吾
 太宰治の一連の小説にも似た、女性の独白で書かれたこの「青鬼の褌を洗う女」という奇妙な小説は、一見延々とどうでもいいような、ああでもないこうでもない、男と寝た、べつの男に求愛された等が書かれてある作品ですが、その退屈に身悶えする長々とした饒舌の中に、きらりと光る魂の躍動が見えてきます。男たちと寝るこのひとりの堕落した女性の精神の随所になにかが発見されいくのです。
〝退屈〟であることに絶望する必要はなく、そもそも人生とはそういうものであって、〝退屈〟を通して見えてくるものがあります。それこそが、人生と呼ぶべきものだといえそうで、そういうことがこの作品には書かれてあるのです。

 安吾は一見野蛮で無礼で奔放な人物を作品にたくさん書きました。彼らは誠実だからこそそうであって、実際その「堕落」の中に純潔さを見いだしていきます。精神でも肉体でもなく、まぎれもなく〝魂〟を。もちろん日本の敗戦を考慮しなくても、普遍的な事柄を安吾という人はその作品で訴えており、「青鬼の褌を洗う女」でもそれは描かれてあるように僕には思えます。


 未完の大器の作家
 安吾の思想を〝娼婦の文学〟であると僕はいいました。つまるところその思想の根本には、「絶対的な価値観」はなく、〝相対的な価値観〟を最高価値にするという考えがあるのだと思います。〝娼婦〟は、安吾が単に娼婦を題材にした小説を描いたということじゃなく、その象徴的な意匠が相対的価値観を実践する存在性を強く放つモチーフだったからにほかならないんじゃないでしょうか。

 生前坂口安吾は、〝文学のふるさと〟ということをいって、有名な「文学のふるさと」という短いエッセイがありますが、それは常に何か根拠のあるもの、絶対的なものを否定しているところにこそ文学のふるさとはあって、小説も人間もそこにあるというものです。
 戦後に安吾を一躍流行作家にした有名な「堕落論」も実は同じことをいっており、「堕落」することだけが人間の全てではなく、そこから人生ははじまる、人生は最初からそのようなものであり、人間はいつもそこからはじめられなければならない、ということをいっています。

 本来、比喩的な装置で、その〝相対的な人生〟を小説として描かなければ、小説は成り立たないはずで、安吾は常にそのような「絶対」と“相対性”の狭間で身もだえした作家だったのだといえますけど、そこになんともいえない哀切さが潜んでいるのが、まさしく坂口安吾です。そこにのみ唯一の人間と呼ぶべきものが現れてくるようです。「小説」という装置が、そもそもそのようなものを描き切れないのだ、といわんばかりの未完でジャンルの逸脱した感触がどの安吾の作品にもあって、それがさらにまた哀切さを呼び起こします。
 
 坂口安吾という人は、小説家に向いてはいなかった、という評価もあるみたいです。彼の作品の多くが型破りなのは、それほど激しく人間の回答を欲したからで、そしてその〝挫折〟にこそ、人間の本質である〝純潔さ〟を見ようとしたからでしょう。
 安吾文学に流れる水脈は、戦中から敗戦へと至る日本の水脈そのものであり、だからこそ彼が紛れもない日本そのものであったというその理由もあるわけで、歴史小説を書き、推理小説を書き、物語、散文、小説と、様々にジャンルを蹂躙しながら、ひたすら人間の「絶対」への願望と、そこから零れ落ちる〝哀切さ〟を被虐的に求めた彼の文学作品は、その未完成においてこそ揺るぎない魂の光芒を放っていると思っています。

 

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