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普賢・佳人 石川淳

 

「普賢」は、石川淳が昭和12年に芥川賞を受賞した作品ですが、ここに収められた短篇諸作品は、彼の初期にあたる作品集なわけですけれど、実はこれより前、既に大正時代に一度小説家として彼は文壇に登場しています。その頃の著作も出版されており、それらのものは初期作品よりもさらに「前・初期作品群」というような趣で、区別されているようです。この『普賢・佳人』によって、つまり本格的に石川淳は文壇に現れてきた、といえます。これはそのような石川淳の「初期」にあたる初期作品集です。

 

普賢・佳人 (講談社文芸文庫)

普賢・佳人 (講談社文芸文庫)

 

 

「佳人」「貧窮問答」「葦手」について

 石川淳は「佳人」によって文壇に戻ってきた、というより、その極めて独自のスタイルで文学を挑発してきたといっていいかもしれません。

「佳人」は石川淳という一癖も二癖もあるその作家が捏造した「文体の披露」という手合いに留まった類で、これだけでは今ひとつ彼がなぜこのような小説で文壇に登場してきたのか、まだよくわからない、と僕は思います。
 家の周りの「臍」を探し出そうとし、〝放浪〟そのままの言葉によって、自身の生活を捉えようとする「私」が登場する小説で、最後に、自然主義云々、と批判めいた言葉を、「作者」へと語り手をずらしながらのたまわり、この〝狂歌〟を方法論とした作者の汲みするところを吐露するに至って終わります。再奮起をかけた作者の宣言書だ、ということは、ただすごく読みとれます。

「貧窮問答」で作者の手の内が幾らか読者にけっこうわかってくるものがあります。石川淳の〝狂歌〟という方法論がいったい何処からやってくるものであるのか、それが単なる「生活の断面」として書きなぐられるものでなく、或る人間関係の網目の中に、はっきり提示されていることが描かれてあります。

「葦手」は、そんなに僕は好きな作品じゃなくて、読み物としては面白いですが、この作家をして、エクリチュール技法を臆面もなく駆使した作品、と単純に片づけてしまって良いものか甚だ疑問で、これが「読み物」であることが可能なのは、作者のその技術の力量に確かに他ならないんですけれども、そもそも小説とは、言葉以外に何か書くべき重要な事柄などあるのだろうか、という疑念を呼び起こされるものがここにはとにかく強くあって、ひょっとしたらそういうシンプルなメッセージだけの小説かな、という気もしていますが。

 とにかくこれら初期の石川淳の作品というのは、人物の関係性が複雑過ぎて、ノートをとりながらでないと、よく話がわからなかったりする晦渋なものが多いんですが、つまるところどれも一種のメタフィクション小説であり、「小説」についての小説であるのです。

 語り手と主人公が交互に錯綜しながら現れる構成は入り組んでいます。「葦手」は、「佳人」や「貧窮問答」よりも、さらに厳密な意味での日本的な〝私小説〟であるといえますが、これら初期の三作品は、皆小説の色合いは違っても、なにより極めて日本的な意味での、饒舌体、という共通する性格を持っているのが特徴です。


「普賢」について

 石川淳芥川賞受賞作「普賢」です。これは文句なしに本当に面白く、傑作でしょう。

 

 盤上に散った水滴が変わり玉のようにきらきらするのを手に取り上げて見ればつい消えうせてしまうごとく、かりに物語にでも書くとして垂井茂市を見直す段になるとこれはもう異様の人物にあらず、どうしてこんなものにこころ惹かれたのかとだまされたような気がするのは、元来物語の世界の風は娑婆の風とはまた格別なもので、地を払って七天の高きに舞い上るいきおいに紛紛たる浮世の塵人情の滓など吹き落されてしまうためであろうか、それにしてもこれはちょっと鼻をつまめばすぐ息がとまるであろうほどたわいのなさすぎる男なのだ。  (「普賢」 石川淳)


 日常の中に身を置いた「私」は、かの『ジャンヌ・ダルク』を創出したクリスティヌの伝記を書こうとしています。けれどその理想の女性像を描く創出を企てようとするほど、辺りの日常の気配が妖しくなっていくことに苦しめられます。「私」は一向にその伝記を書き上げることができません。
 一見それが単なる主人公の迂回の行為(愚痴や、倦怠)に見えもするわけですが、実はこの作品、「私」が書こうとするその〝意志〟と、辺りの〝日常〟の気配とが密接に結びついている事柄が重要で、だからこそその解けた糸を巻き戻すように、主人公はそれら取り止めのない出来事を語りつづけている、という作法になっているわけです。

 この「普賢」という作品で重要なのは、様々に人物の関係性が浮き彫りにされる中、「私」が描こうとするクリスティヌの女性像が、ユカリ、という現実の女性像と重ね合わされているという点でしょう。小説の焦点が不鮮明なのは、そのためなのです。

 

 今わたしは寝床の上にあおむけになりながらトルストイの日記のこと、次の一節のことを考えている。「現在の自分の境遇にあっては、何もせず何もしゃべらぬということがもっとも必要ではなかろうか。自分の境遇を破壊しないということのみが必要であり、また自分にとって必要なものは何もないという点をはっきりわかることが必要である。―ということが今日はっきり判った。」さて、わたしならばこう記すところであろう。「自分がなにものであるかはっきり判らぬ現在の境遇にあっては、何をしようにも宛はなく、宛のないままにしゃべることよりほかどんな必要なことがあるというのだ。境遇を破壊すべき手がかりすら見当たらぬ雲の中に紛れこんでいる自分であってみれば、自分にとって何が必要であり不必要であるかはっきり判ろうすべのない点が問題である。―ということは今 日はじめてわかった話ではないが、そんなことが判ってみたところでいったいどうなるのだ。」   (「普賢」 石川淳)

 

「葦手」と似て、「私小説」的な性格をこの作品も多分に持っていますけれど、この「普賢」という作品で作者が狙っているのは、日常の奇異に映る人物たちの妖しい関係性の網目であって、「私」が言葉において捕らえようとするものは、自然主義的なリアリズムの告白や描写ではなく、その〝迂回〟という方法に表れる、一向に真実など仄見えてこない、日常の滑稽さに飲み込まれて生きるしかない、「私」という曖昧な存在性というやつです。なによりそこに放出される意味にならない「言葉」で、この物語中、この作者の意図を最もいい表している部分が、この引用した部分にあります。

 要するに、「普賢」の主人公は、この「世界」のことを何もわからないといって最初から降参しており、けれども、そのような素振りを見せながら、この「世界」の真実などいかほどのものだろうか、ということもまたいっていて、それをつぶやいています。彼がいいたいのは、真実などというものは何処にもないというような、なにもそんな哲学めいた虚無感ではなく、語るということが許されるなら、それは一向に真実になど積極的に向かわない、その言葉を吐きつづけることだ、というまさにその実践なわけです。

 このような饒舌体としては、やはりドストエフスキーの小説に似た性格が見受けられますが、石川淳の小説世界は、ドストエフスキーのような広大なアレゴリカルな宇宙とは違っているのが特徴で、きわめて日本的です。あくまで狭い「私小説」的な配置の中で、一貫して「私」という書き手の〝閉鎖的〟な視線を通して描出される言葉で、それは「昭和前期」(戦前)という、この日本の時代の雰囲気の、その〝保守性〟(サロン的雰囲気)にも大きく起因があった、と僕は思っています。

 

 石川淳の文学

 石川淳という作家が、そもそもなぜこのような饒舌体における方法論を、昭和の前期という時代に全面に出して登場するに至ったかについては、幾らか考察する必要があると思います。

 坂口安吾織田作之助太宰治石川淳ら、戦後の一時期「無頼派」と呼称された作家たちは、実は戦前のかなり早い時期から皆無頼的に活躍していました。その中でも石川淳はとても息が長い人で、織田作のようにヒロポン中毒で夭折するのでもなく、太宰のように愛人と心中自殺するのでもなく、戦後も長いこと活躍して文壇の重鎮でありつづけました。彼がなぜ〝無頼〟と呼ばれるのか。彼は間違いなく〝無頼〟的な作家です。彼は近代小説史上では戦前も戦後も一貫してアウトローだったのです。

 石川淳が文壇に登場した当時、日本文学は「真実」を告白さえすれば、技術も知識も何もいらぬと考える〝芸術家〟としての称号が、自然主義文学を超えて、私小説プロレタリア文学勢に浸食された時代でした。それらにはまったく追随せず、石川淳は〝職人〟としての道を選びました。
 職人というのは文字通り、芸術家ではなく、技術屋です。彼の文学には言葉の魔術師とでもいうべきこれでもかというエレガントで衒学的な匂いがぷんぷんしており、明治の頃に森鴎外などが持っていた江戸の名残の知識人的な日本の学術と通じるものが多分にあって、西洋の文学に浸食された自然主義的な日本の近代文学とは、大きくかけ離れて異端な文学です。
 彼は「真実」を描くのだという〝芸術家〟からの「堕落」から、結果的に、小説を書くための小説というメタフィクション的方法を死ぬまで歩みつづけました。積極的に何も語らない中、和漢洋さまざまに駆使したその「言葉」だけを語る、という〝堕落〟へとその身を呈していったわけです。

 同じ無頼派安吾がその小説観において、「文学とはまさに生きることにおいて現れるものだ」という実践を示したとするなら、石川淳は「文学とは即ち言葉の問題に他ならない」ということを、その文字通り〝気狂い〟じみた無頼行為=「狂歌」によって示したのだと、僕には思われます。

 

 石川淳と日本的美質

 石川淳には江戸時代の巷談や戯作小説に強く影響を受けた性格が見受けられます。なにより明治時代まで日本の知識人が所有していた、和漢洋の混在した知性、今いった森鴎外が持っていたようなものに似た痕跡がすごくあるのです。彼は自然主義に代表される、「意味」に支配されて、言葉が貧相になっていく「近代小説」とは別の方向へ、大きく舵を切り、日本の近代小説に大きな可能性を呼びこみました。

 言葉そのものの醜悪、右往左往、縦横無尽に闊達するその言葉の躍動が、「普賢」のような初期の代表的作品にはっきりと表れているのがとても面白いと僕は思うのです。石川淳の小説を、泣き笑いの日常もの、面白可笑しいその語り口で描かれた「戯作」として読んでしまうのも間違いでないと思いますが、「言葉」というものが、「言葉」に対して現れる〝言葉〟を描くことこそが文学であって、その言葉と言葉の格闘から現れる〝語り〟にこそ、作者の主眼があったことは、疑いないところです。

 ただ江戸文学が持っていた〝町民文化としての幕府への反抗〟のようなアグレッシヴな姿勢を、石川淳という作家が内包していたとは見受けられず、彼の小説はあくまで「読み物」として、言葉を現実から引き剥がしてその内に引き戻すインテリジェンスのお家芸に近いものであって、言葉というものが真実を見出すものでない器なら、そうでない方へと己の技量を掲げていけという、昭和という時代に入って知識人たちが実体的に影響力を失っていった果ての〝言葉遊び〟へ身を堕した、いい意味での「遊戯」だったのかな、と思っています。

 

 世界に誇る日本を代表する小説家

「今はだめだ、人間中毒だ」と捨て台詞をいう場面があったり、とにかく石川淳の小説はすっ呆け感もあってとてもユニークです。後にいちばん影響を受けた作家は、町田康でしょう。「くっすん大黒」で彼がデビューしたとき、ぼくは、これは石川淳だ! と驚嘆したんですが、当時は福田和也以外あまり影響を云々いっている評論家はいなかった。僕が石川淳に触れたのは、やはり好きだといっていた金井美恵子高橋源一郎らがいたからです。石川淳に影響を受けた現代作家はけっこういるんです。

 石川淳の小説において、登場人物たちは関係性の網目を繋ぎ止める交錯としての1つの〝点〟です。それを〝円〟や〝四角〟にしようともがけばもがくほど、さらに複雑な日常が奇異を帯びていく。彼らが〝無頼(遊民)〟なのは、恥じがないからでも、元来怠け者だからでもなく、いつまでも一向に〝点〟でしか有り得ない、その関係性の渦中で、滑稽な姿態を演じるだけの自分を常に見出さずにはいられないからです。

 その狂歌(エクリチュール)の目的は、文壇登場作の「佳人」で提示されたような「人生の醜悪を、奇異にまで高めること」に他ならず、その〝日常の奇異〟を描くのに、あくまで「日常」はその物を書く土台としてあるだけで、本当に彼が拘っていたのは、〝言葉の奇異〟にこそあります。
 人物関係が逸脱していくのは、いわば「日常の醜悪」=自然主義に足を掬われないのだという意志の賜物であり、人生の醜悪を描くことはせず、言葉の醜悪、その奇異や、また美しさを描くということは、石川淳の生涯一貫したテーマだったといえるでしょう。

 石川淳を読むなら、「佳人」「普賢」辺りからがいいと思います。『紫苑物語』や『焼跡のイエス』などほかにも素晴らしい作品がたくさんあって、僕は川端康成と並んで、石川淳は世界に誇る日本近代小説家の文豪の一人だと強く思っていて、この豊かで特異な日本という風土を捉えるとき、彼の書いた小説はなによりも貴重で、その〝無頼〟と〝堕落〟こそが、日本の本来の姿であり、敗戦後も一貫して変わらなかった、日本的美質、だと思っています。

 

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