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田紳有楽・空気頭 藤枝静男

日本近代小説

 

 藤枝静男は〝私小説の極北の作家〟とよくいわれるみたいですけれど、その通説は常々間違っていると僕は思っていて、断固反論したいと思います。
 正当な小説を書いた人こそが彼だ、というのが僕の藤枝静男評価で、この講談社文芸文庫版には彼の文学に磨きかかってきた代表作二篇が収められていますが、これを読めばうなずけるはずだと思います。
「空気頭」は1967年に出版された作品です。これは講談社文芸誌「群像」に掲載された作品なのですが、驚くべき作品だと思います。実際にこれが文芸誌に掲載されたということは、とにかく大変なことだと思います。なぜなら、この小説で扱われている題材が、「スカトロ」だからです。

 

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

 

 

「空気頭」

 収録順は違うわけですが、執筆順番的に「空気頭」から論じたいと思います。
 自分の異常な性欲の気質に苦しむ男が、それを脱却すべく、汚わいに塗れ、スカトロジーの世界に没入していく話が「空気頭」です。
 これだけで、もうめちゃくちゃ面白そうです。
 最終的に彼は自らが開発した「人口気頭装置」というものを使い、性の支配を脱し、〝空気頭〟となって空を飛んでいきます。なんでしょうか、これ。確かに、なんだ、これはです。でもこの小説の構成自体はいたって凡庸といってよいものなのです。自ら率先して苦境に挑みかかっていく求道的な――破滅型作家の葛西善蔵や嘉村磯多らが持ち得ていた――、「私小説」的方法論が、この作品ではとられているのです。

 

 人は、貧血したり、死に移行しようとして脳細胞の活動が無に近づけば、瞳孔は散大し、焦点は呆やけ、光は眼底へ大量に射込まれて、外界の物皆は遍満する白い光線に覆われ浄土のように輝くのです。
 私は勿論、禅の悟りのもたらす精神の充実感と、脳細胞の衰弱によって物質的に呼び起こされる空虚感とを、同じものだなどと思っているわけではありません。しかし、その一瞬だけを現実的に較べるとき、このふたつのものが全く異なるとも信じないのです。つまり私は、とにもかくにも両方とも「人を救済」することはできると思うのです。現に、私はあのとき、虚無と充足とを同時に感じ得たではありませんか。
 ――私は、一時の私が人糞で救われたように、今度はせめてこの空虚だけでも人工的に作り出すことによって、自分を救わなければならない、そう考えました。
 作り出す場所は、もちろん私の脳内以外にはあり得ません。私の耳の奥には、安富君がキャラバンの丸天井で呟いた「つまり離れるのだな」という一言が、あたかも天啓のようにひらめいていました。   (「空気頭」  藤枝静男)

 

 引用した箇所は、最後に主人公が通っているキャバレー店!において〝空気頭〟を経験する場面です。「現実」と「幻想」が並列された果て、スカトロジーという「彼女の体に蓄積されたかの栄養物」(「空気頭」中からの抜粋)のごとくひとつの人生を通過して、主人公は悟りを経験したことが、こういうふうに書かれています。本当の意味でここで「私」が〝私〟になるというのが、この小説の意図のようです。
〝空気〟が妻の治療法と似た器具であると同様、それが禅の〝空〟にかけて扱われているので「空気頭」というわけなんですけれど――まるでとんちですが――、これはトルストイが『戦争と平和』で描いたものやドストエフスキーてんかんの発作で得たのと同じものという崇高な文学的意味合いもこめられているようです。なぜこんな書き方をしたのかといえば、藤枝静男はここで私小説が持つ強度をなにより語りたかったんだと、強く僕はそう思います。

 

「空気頭」における私小説的方法論

「空気頭」において、第一部では闘病生活を長いこと送る妻を看取る「私」の独白がかなり抒情めいて綴られて、二部では一転して、です・ます調で語られる他人行儀な口調で、自分がいかに若い頃肉欲に苦しめられ、また何故それを脱し、〝空気頭〟を発見し得たか、そのことをユーモラスに綴られています。
 つまり構成的に見るのであれば、一部がリアリズム小説で、二部が幻想小説ということになるわけですが、これを一つの構成の中に内在して葛藤させるのではなく、通俗的に並列させたところこそが、私小説作家藤枝の独創性であり、また文学性で、つまるところこの「空気頭」がどれだけ風変わりな小説であろうが、藤枝静男という作家の作品が「私小説」である理由がここにこそあるのだ、というのが僕の思うところです。
 二部の後に、再びリアリズムの独白としての第三部が添えられて、この作品は「私小説」がその内在的に持つ〝散文性〟を如何なく発揮させて、その性格をまさしく臆面もなく謳歌して幕を閉じます。つまりこういう作法にこそ私小説的方法意識の持つ特異性と可能性を、充分に知らしめるものを謳っているのだと思います。

 

「田紳有楽」

 次に「田紳有楽」です。
 この作品は「空気頭」よりさらに奇妙です。ほとんど従来の小説から見れば、奇想天外、摩訶不思議、へんてこりんな傾向を持つ作品です。一応幻想小説の枠内に収められる作風を持っていますけれど、泉鏡花のような本筋の系譜に当てはめてみてもとにかく妙な作品です。

 

 七月の初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。
 台風の前触れで、時折りの晴れまはあったが俄雨と突風の夕方になっていた。庭木の枝が飽和点まで水をふくんで項を垂れ、重くたわめた身体を左右に緩く揺すっている。いつもは二階の窓の半分をふさいでいるユーカリの大木が今は視界全体をさえぎるほどに膨脹している。庭に降りると小枝まじりの葉が一面散り敷いていて、拾った掌で揉むと特有の芳香が鼻を刺した。黒い小粒の固い実が無数に落ちてあたりの泥にまみれている。   (「田紳有楽」  藤枝静男)

 

「 七月の初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。」といかにも、小説風な書きだして書き出されるこの小説は、まったく読者の期待を裏切って、とんでもない方向へ逸脱していきます。

 この小説の主題は一言でいえば、「空気頭」と同じく、悟り、とはいったい何なのか、といったことだといってしまっていいと思いますが、全ての登場人物が、偽者か本物かの二分法にその身を玩び、人生の全てをそのことに費やしています。それら人物たちが身勝手に語りはじめるこの小説の常軌を逸脱した構成からして、ほぼストーリーといったものも皆無です。
「空気頭」からほぼ10年後に藤枝が挑んだ作品が「田紳有楽」ですが、「空気頭」で描いた〝悟りの境地〟を、今度は真正面から仏教を題材にして荒唐無稽な幻想忌憚として作品化したものが、この作品といえます。この〝悟り〟は現実的な意味合いでは〝変身〟の意味で用いられていることが特筆すべき点です。

 

 私は永生の運命を担ってこの世に出生し、釈迦の遺命によって兜率天に住し、五十六億七千万年後に末法の日本国に下向かして竜華樹のもとで成道したのち、如来となって衆生に説法すべき役目を負った慈悲弥勒菩薩の化身であるが、今日只今のところモグリ骨董屋に身をやつして街裏の二階屋に日を送っている通称磯碌億山ちおう者である。   (「田紳有楽」  藤枝静男)

 

 いっておかなければならないのですが、ここに登場する者は、皆人間ではありません。金魚のC子に熱を上げる湯呑みのグイ呑み、朝鮮生まれの柿の蔕と呼ばれる抹茶茶碗、蒙古生まれの丹波焼きの丼鉢。
 唯一この作品の中で人間として登場する「磯碌億山」という人物がいますが、彼は一応目利きの対象であるという設定になっているわけですけど、それが変質するまでの意味合いで、彼らは庭の池の底の放り込まれているのです。
 つまり彼らは偽者だというわけで、「焼き物」として本物でないから主人に見放されているという説明ですが、彼らは彼らなりに、空を飛ぶ術を身につけたり、池を流れて外の世界へ流通したり、何とか主人をたぶらかし〝本物〟に成り代わって、悟りの境地を開こうと苦心しています。
 しかし、一方この物語の語り手である磯碌億山という人物も、人間であると描かれながら、自分を釈迦のいいつけによって竜華樹の下で成道し、如来となって説法のため人間の姿を借りている弥勒の化身であると思っているという人で、どうみても普通の人じゃありません笑。
 早く元の如来の本領を発揮して何者かに変身したいと思っている常人ならざる性格を持っており、こんな人物がこの物語の語り手なわけですから、描かれる内容も何処から何処までが幻想で、何処から何処までが現実意味合いを含むものであるのか、はっきりとしていなくてわかりません。けれどもです。そもそもそんな「現実」と「異界」との境界の線引きは、この小説では全く無視されて描かれていて、はっきりいってどうでもいいのです。

 

「田紳有楽」の方法論

 この「田紳有楽」という作品はいってしまえば、真正面から仏の悟りを探ろうとしても、頭がこんがらがるだけで、読み取られるべきなのは、そのような驚くべき現実と幻想とが無効になってしまうという〝奇跡〟の現前が、いったいどのような手法で描かれて、またそれはどのように可能なものとなっているのか、ということに尽きることだといえます。そのため作品についてもう少し詳しく見ていきます。

 この小説は構成的に大きく2つに分けられます。前半は先にあげた、ぐい呑みと柿の蔕と丹波の丼鉢の三人が「私」と名乗って、それぞれに物語で自らの身の上を饒舌に語る作りで、後半になると、実はその主人である磯碌億山が、この物語の語り手であるという風になって、それぞれの素焼きを俯瞰するというふうになっています。
 文庫版の解説の川西政明によると、この作品は断続的に連載された作品らしく、藤枝はこの作品をやはり最初からまとまったものにしようとして書き始めたのではなかったのだな、と僕は納得がいきました。

 重要であるのは、これは幻想的な物語でありながら、「空気頭」がそうであるように、あくまで「私小説」だ、ということなのです。

 作品の最後は、同時期の吉田健一の『金沢』(1973)にも似た有機的連鎖の纏まりが一応つけられていますが、作者が作品にある決着をつけてやろうという積極的な企みがないのは一目瞭然です。
 つまるところ登場人物たちは、語り手でさえもそれぞれ独立した存在であり、並列的に物語内部にしか登場しません。語り手である磯碌億山人物なる者さえ、自分の持ち物である素焼きたちに罠に嵌められ、またその自らの変身願望を患うという、語り手には不似合いな滑稽な有様として存在性を現しています。
 全てのものはそれぞれ独立した観念を持ち、皆が変身し、現世と来世とを往来し、人間と素焼きの間を行き来し、本物と偽者との間を無効にしてしまうという関係性となって描かれています。それらが各々限りなく愛しい人生の愛らしさを放っているという図が幻想として描かれているのです。これは藤枝静男が師匠と生涯称えた志賀直哉私小説の方法意識と同じだということが、実は驚きなのです。

 

 藤枝静男という正当な私小説作家

 藤枝静男志賀直哉に私淑した作家でした。志賀直哉のような小説をずっと書きたいと修業をした人でした。文学に目覚めたのは早いですが、落第生で、本業が眼科医でもあったためか、小説家になったのは遅いです。本当に傑作を書きはじめたのは、60代を過ぎてからでした。
「空気頭」は『暗夜行路』的な一種の〝悟り〟の境地までの「私」を究極に突き詰めることで、とうとう私小説的な「私」を超えていってしまった、「私」の壮絶な認識体験を描いた〝藤枝版暗夜行路〟だと僕は思っています。「田紳有楽」は、僕はこれはある種の藤枝流の私小説論、本筋の私小説を越えて、さらに原始的な私小説へと到達した、志賀直哉批判だとさえ思っています。

 そもそも文学的にいって、私小説とは、身近な人間の生活をリアリズムで淡々と記す、そういうふうに狭いものを書くことしか出来ない分野だと思われていて、志賀直哉だって「小説の神様」などと一方で賞賛されてはいましたけれど、無頼派坂口安吾織田作之助らのエッセイなどを見れば明らかで、批判も一面に確実にあったわけです。しかし、志賀直哉の作品にしても、この藤枝静男の「田紳有楽」にしても、そんな狭い題材だからこそ可能だった豊かな世界がまさしく驚くべき側面を持って現前しているんじゃないか、と思えてならないわけです。それが私小説です。

 藤枝がここに書いた二篇はリアリズム小説ではありませんが、間違いなく私小説であり、志賀直哉とはまた異質な私小説的手腕が、ここにみごとに達成されていると僕は思うのです。
 藤枝静男の作品、とりわけ晩年の作品がなぜそんなに面白いのか。作品内部に描かれた、「虚無」と「充足」とを同時に捉える、まさに志賀直哉的「変形私小説」の性格を彩っている作者のその「私小説」を扱う絶妙な手捌きが、私小説の神髄に限りなく迫ろうとしているのにほかならないからです。
 志賀直哉が持ち得ていた、セザンヌから継承したキュビズム的芸術性を、多くの志賀の亜流は手におえませんでしたが、藤枝静男はそれを正当に継承し、なおかつ変形的に越えた唯一の存在だったと僕は思えてならないわけです。 

 

 藤枝静男文学の現代性

 現代の日本の作家ですと、笙野頼子がとても藤枝静男の影響を受けていると思います。川上弘美も痕跡があると思います。 
 先入観がなければ、藤枝静男の作品はとても面白く読めると思います。とりわけこの2作品は本当にユニークで、こんな小説があるんだって、びっくりすると思います。
 主人公たちがとぼけてぬけぬけとして、物言いぐさが味わい深く、徹底して閉鎖的に「私」であろうとすることにおいて、それを逆に豊かな世界へ変質させてみせる。それが「空気頭」と「田紳有楽」という小説です。

 狭い日常の「私の世界」が、いかに〝豊か〟なものであるか。質素な四畳半から見える庭の池が、実は底知れぬ極楽浄土の宇宙に通じている。
 そう確かに思える感覚が、これら藤枝静男の代表作にはあるのです。
 私小説とは家族や不貞や貧乏などの身辺のちまちましたことを書いている起伏のないつまらない小説だと、表面だけを切り取って批判するのは間違いです。そこにこそ豊かなものを見いだせる逆説的なリアリティーが潜んでいます。 
 藤枝静男の全集すべては直筆の署名入りです。僕も持っていますけれど、大事な宝物のひとつです。ときどきひも解いて彼の文学世界にどっぷり浸るのが、僕はとても好きです。 

 

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