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『ヒミズ』『シガテラ』『ヒメアノ~ル』 古谷実

漫画

 

『ヒメアノ~ル』(2008―2010)が森田剛主演で実写化! というわけだからでもないですが、古谷実作品について、記事を書きたいと思います。
 原作者の古谷実さんは「週刊ヤングマガジン」の『行け! 稲中卓球部』(1993―1996)のヒットで有名になった漫画家さんです。皆が知っている大御所です。古谷さんの作風は或る時を境に変わりました。『ヒミズ』の連載がはじまったときは、読者の中で賛否両論が巻き起こったのは有名な話です。それら古谷作品の変化を中心に、ここでは書きたいと思っております。

 

行け!稲中卓球部(1)

行け!稲中卓球部(1)

 


序 『ヒミズ』以降の古谷実

ヒミズ』が連載されたのは2001年―2002年辺り。ちょうど新世紀がはじまったときですね。それまでのギャグ漫画のイメージだった古谷実像とは一風変わった、とてもダークな作品を古谷さんは描きはじめました。ぼくもまた複雑な感情を持って読んでいましたけれど、この作品の構想の経緯は当時の時代的閉塞感も強く関係があるんじゃないかと思っています。
「サカキバラ事件」が起こったのが1997年です。日本の不況がさらに長いトンネルに入り、先行きの見えない暗澹とした空気が流れていたのがこの時期で、援助交際とか、ギャルだとか、渋谷系とか、退廃的で刹那的な若者文化も一段落着いた頃でした。小泉=竹中路線で、格差社会時代がはじまったとされ、「派遣村」なんかも話題になったときです。プロレタリア文学小林多喜二の『蟹工船』が売れたりしましたね。
ヒミズ』は園子温監督で2012年に映画化されまして、東北の震災を絡めた、原作とは少し異質な作品にできあがっていて、個人的にはあまり楽しめませんでした。とにかく古谷さんの漫画はこの時期、変化したわけです。そしてその『ヒミズ』の頃から、ダークな側面を前面に打ち出して、ギャグ漫画家を脱皮し、シリアスな漫画家として完全に変貌を遂げてしまいました。

 

ヒミズ(1)

ヒミズ(1)

 

 

1 『ヒミズ』について

 まずは『ヒミズ』についてです。
ヒミズ』の主人公は中学校に通う住田という少年です。彼の家は貸しボートを経営しています。家がとても荒んでいて、というより、そもそも家族がいない状態です。人生のいわば「負」を背負った人たちが、やたらに出てきます。彼をなんとか更生させようとするのが、茶沢さんという同級生の女の子で、でも、彼は最低である父親を殺害してしまうに至ります。そのあと連続殺人犯になって町を彷徨うことになるというストーリーです。

 僕はこれを読んだとき、古谷さんがこういう漫画をこそ実は描きたかったんじゃないかな、と思えたところが本音としてありました。作家は時代と寝ることを常に羨望するものなのです。
 光から闇へと大きく振り子を振って、自身のクリエイティブの幅を広げるのが作家で、実際クリエイティブなものに関わっている人は、こういう心境の変化はすごくわかると思います。『稲中』の成功で、好きなものを描いていいよ、というふうに編集者との関係も良好になったというのもあったのかもしれません。
 とにかくこんなふうに極端に作風ががらりと変わることは、古谷さんに限らず往々にしてあることで、1980年代から90年代にかけての岡崎京子さんもそうでしたし、浅野いにおさんも最初はギャグ漫画を描いていたんですね。古典だと、夏目漱石なんかも前期後期では違うし、マーク・トウェインなんて、『ハックルベリー・フィンの冒険』と『不思議な少年』では、まるで作者が別人です。

ヒミズ』以降、古谷実漫画は変わった。

シガテラ』(2003―2005)というのを古谷さんは次に描きます。これは『ヒミズ』的なダークな作品とは少し違い、明るい側面も持っています。僕は古谷作品では『シガテラ』が一番好きです。
「日常」を描きながら、そこから落ちそうで落ちない不安定な人生が絶妙に描かれてあって、『ヒミズ』的な凶悪犯罪がストーリーの主軸となって、やはりそれが「日常」をグラグラと揺るがすわけですが、それが微妙な思春期の少年の心の揺れと相まって、完全な暗黒へと陥らずに、相乗効果を発揮して、最後には清々しささえ漂う希望ある作品になっているからです。

 

2 『シガテラ』について

シガテラ』は『ヒミズ』の変奏ヴァージョンだといっていいんじゃないかな、と僕は思っています。『ヒミズ』がダークな部分を徹底的に掘り下げた方向性を持つ作品なら、『シガテラ』は闇が描かれながらも希望があります。それは主人公の彼女である南雲さんの存在が大きいわけですが、この荻野という主人公は実になかなか複雑な胸中を持った男なわけであります。

 

シガテラ(1)

シガテラ(1)

 

 

シガテラ』の主人公は荻野という高校生です。彼はいじめを受けています。高井という友達がいます。ふたりは谷脇という不良からパシリをさせられています。高井は家が金持ちのせいで、金までとられていて、「あんなやつ殺してやる」というふうに、だんだん憎悪がエスカレートしていきます。やがていじめから荻野のほうはあっけなく解放されるわけですが、高井のほうはもう学校をやめてしまっています。
 高井は頭のおかしい男と付き合うようになっていました。谷脇を殺そうとする計画に身を乗り出しています。でも実際に行動に移すことはそうそう簡単なことではない。でも、その頭のおかしい男のほうが暴走してしまい、谷脇は耳を削がれて拷問されます。高井は良心の呵責に苛まれて、監禁されている谷脇を助けるに至ります。

 このエピソードのあと、ストーリーは平穏な日常にいったん戻るわけですが、荻野と谷脇が再会するところから、再び以前の暗黒が荻野に訪れて、「闇の世界」に引きずり込まれていくことになります。
 谷脇と河に落ちた銃を探しているときに、荻野はいっしょにヤクザに捉えられ、寸でのところで解放されてなんとか事なきをえて助かることになります。そのとき混乱した荻野がこういう台詞があります。「ぜんぶ谷脇のせいだ! おまえが悪いんだ、ぼくをこんなふうにしたのはおまえだ!」と。すると谷脇は荻野にこういうんです。「それはお互い様だろう」と。

 

3 00年代の『シガテラ』が描こうとしたもの

シガテラ』というこのゼロ年代に描かれた漫画が、今もっても実に興味深い作品だと僕が思うのは、いじめられっこの主人公であるこの荻野の内面性が鋭く掘り下げられていることがもちろあるわけですけど、さらに彼が問題に正確な解答を一向に与えない、というところに尽きると僕は思っています。
ヒミズ』では闇をとことん描きつくすはずだったのに、どうも描き足りない、というか、なぜか本当の「闇」を描けた気が古谷さんはしなかったと思ったのかな、と思うんです。似た作風で違った描き方で取り組もうとしたのが『シガテラ』だったんじゃないかな、と。作品の方向性、結末は違うんですが。
 南雲さんのような美人の彼女が欲しいと思うし、いじめられていたら勉強だって手につかないし、バイクで疾走したい気持ちにだってなるし、いじめっこだった谷脇を恨みたくもなる。いっそのこと殺してしまいたくもなる衝動は、リアルです。荻野が出くわしているのはかなり深刻な状況です。壮絶な渇望感です。しかし、人一倍気の弱いはずの荻野は、それらの問題から意外と目を逸らさないんですね。
 理由として彼には趣味のオートバイがあり、なにより南雲さんという彼女がいるからですが、この荻野の性格は、降りかかる問題から逃げないというより、気が弱いために逃げられないといったいいかたがやはり正しいわけなんですけれど、それでもそれは彼の最低限ぎりぎりの誠実さの表れとして描かれていると思います。
 南雲さんが荻野を好きになったのはそういう部分のはずで、でも彼には彼女がなぜ自分を好きになってくれたのかは理解できないままです。困難が自分に降りかかってきたのはなぜか。誰が悪いのか。自分が悪いのか……。どう対処してよいかがずっとよくわからない。対処できないのは、逃げているからではなく、そこでなにが起っているのかわからないからです。


4 『シガテラ』で描かれた荻野の成長

 そもそも人生というのはすべてが初体験です。入学も、恋愛も、結婚も、仕事も、出産も、子育ても、老後も、人はすべてが初体験を経て人生を終えるもので、子供から見て親はなんでも知っている存在に見えますけれど、実は親は親であることは初体験なわけで、世界とはそんなあやふやなもので、そういう混沌としたリアルさが、『シガテラ』には荻野の戸惑いとしてよく出ていると僕は思うんです。
 谷脇に「お互い様だろ」といわれたとき、荻野は以前高井にもいわれた同じ言葉を思いだすわけで、「自分が谷脇と縁になったのも、もともとオギちゃんのせいじゃないのか」って高井は荻野にいうんです。自分は誰かを不幸にしてしまう存在なのかもしれない、と荻野は思います。しかし『シガテラ』というこの漫画において、主人公の荻野は自分の弱さの理由についてひとつの答を得ます。地獄めぐりには意味があったわけです。
 僕が『シガテラ』でいちばん優れていると思うところがありまして、それは最終巻の60話の「受験生」のところです。

 

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 引用したここのラスト近い部分はかなり文学的です。僕は『シガテラ』のピークはここだと思っています。

 すべては谷脇のせい―誰かのせい―だと思っていた荻野は、この『シガテラ』という漫画の後半において、少なくとも自分が影響している事実は存在する、と知るに至るわけです。荻野はこんな自分が南雲さんとこれからやっていけるだろうかと悩むシーンで、そういうことをいうわけですが、こういう感覚は夏目漱石の小説、たとえば『坑夫』などに描かれた主人公の心情などとすごく似ています。「自分」を客観的に見つめようとする〝自我〟が現れてきている。人生の困難とは、対処できる術など実はなく、だからこそそれは「苦難」であって、いろいろ原因はあったりするけれども、根本的には対処方法はなく、解決策はありません。できることは、それを軽減させていくということだけです。

 南雲さんという存在と共に生きていくためには、いじめや暴力という問題ともかかわっていかざるをえない。そのことを荻野ははっきりとここで認識するに至るんですね。理由のない世界を、自分を、未来を、彼は受け入れるわけです。

 

5 『ヒミズ』から『シガテラ』へ

シガテラ』というこの漫画に描かれた荻野という気の弱い主人公が、そう友人にいわれたように、本当に人を不幸にする人間であるかはわかりません。誰かが生きている限り、それは誰かを傷つけているものに違いなく、また感謝されていることも同様あるでしょう。弱者ほど「人間の真理」に悩むようにできているのは、世界の摂理です。
 人生とは他人を無縁にして生きることは不可能です。人生が困難であって、さらに対処法がないのは、他人同士が生きているコミュニケーションで「社会」が成立しているためです。だからこそ人間はクリエイティブや虚構、たとえば小説や漫画なんかを必要とするんです。結果として、この「世界」の関係ある一人として自分は紛れもなくある、と荻野はここで理解するわけですが、この自分中心の視点から、関係性の視点へと、作品の視点が移動していくところは、古谷作品の鍵だと僕は思っています。
 自我が芽生えるというのは、〝もうひとりの外部的視座〟を持つということで、「自分」という存在をそれまでとは違う視点から疑って見る経験です。後退の感情には違いないのですが、フロイトのいう意味での「積極的な後退の感情」であって、それはやはり成長であり、古谷実という漫画家の成長でもあると思うわけです。

 つまり荻野という少年が混沌の世界を肯定するに至ると同時に、古谷実という漫画もまた世界の混沌に対峙していったわけです。

「ならば不幸が訪れる寸前まで、南雲さんを幸せにしよう!」と、気を悩む荻野は、そうここで決断します。そうして彼はただの困難ではなく、「本当の人生の闇」と対峙するに至るわけです。

 

6 『ヒミズ』から派生した古谷実漫画

ヒミズ』から『シガテラ』への作風の変化、そのほかの諸作品についての関連性を、さらに考えてみることにします。

ヒミズ』では、自分が特別だと思う人間は頭がおかしいんじゃないか、というふうに主人公が思うドラマが描かれており、主人公の住田は自分が異常な人間なのじゃないかという予感に震えるわけですが、彼が父親を殺したのは、父親が憎かったからというより、自分の異常性を確認する行為を具体的に示したかったからにほかならないのは自明の理です。住田は殺人を犯したあとも、自分は異常者だと認識しておらず、あくまで正義たろうとする人間です。
 この徹底的でダークな『ヒミズ』でポイントなのは、主人公が「異常」なのは、自分の〝異常性〟を認識しようとしないのが本当は理由で、正確にいうと、その〝異常性〟に「言葉」が与えられないことがたぶん理由なんです。
シガテラ』は〝この世界の外〟が迫って来ても、主人公の荻野は「現実」に踏みとどまろうとします。犯罪に加担しようとした友達の高井もそういう誠実さを持ったキャラクターとして描かれています。『ヒミズ』は〝非日常〟に一直線に落ちていくわけですが、そこに「殺人」という「回答」を与えてしまう。『わにとかげぎす』(2006―2007)を挟んで、その次の作品にあたる『ヒメアノ~ル』では、殺人をしなければ自分のアイデンティティーを保てない狂人が、古谷作品でははっきりと登場してくるに至ります。

『ヒメアノ~ル』では、決定的なシーンがひとつあります。

 最終話のほうのまるまる見開き二ページで、「オレは完全に普通じゃないって気付いた日のことを覚えている……悔しくて、その場に死にたくなった」と、そのテーマがずばり描かれた箇所が、この漫画には出てくるわけです。たぶん古谷さんはこのことを描きたくて、この漫画を描いたんだと、僕には想像できます。

 

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 とにかく『ヒミズ』『シガテラ』『わにとかげぎす』『ヒメアノ~ル』と作風を順に追って見ていくと、〝非日常〟と「現実」の相克がどんどん深刻になって深められて、同じ主題をまた別の視点から執拗に描こうとしている漫画家の執念のようなものがよくわかります。


7 絶望の世界を生きる古谷実漫画

 

ヒメアノ~ル(1) (ヤンマガKCスペシャル)

ヒメアノ~ル(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 

 古谷実という人はなんでこういう世界ばかり描くのか。
 最後にこの問いを考えてみたいと思います。
 壮絶な味方のいないこの世界にたったひとりぼっちだという人間の孤独の発見は、着地する現実を見失って、たとえば連続殺人にときおり発展します。古谷実作品に描かれたこのような人物たちのデスコミュニケーションはほとんど絶望的であり、その究極は殺人しか一見ないように思える節も感じられもします。
 しかし、殺人がひとつの解決法であるという認識が間違いであることは、古谷作品において、すでに明らかになっているのです。
ヒミズ』『ヒメアノ~ル』は肉親や苛烈な過去という向かい合わざるを得ない現実がそこにあり、『シガテラ』の荻野は少なくとも家庭は安泰だし、なにより南雲さんという強い味方がいる。『ヒミズ』『ヒメアノ~ル』では、その防波堤は突き破られることになって描かれています。
 主人公を救済する扱いの女神が登場してくるかこないかは、実はさして重要ではありません。古谷作品の描くシリアス系の漫画には、しっかり希望の側面が描かれてあるのは間違いありません。殺人当事者とそうでない者との違いは、現実と対峙するかしないかです。解決不可能な問題から逃げないことです。荻野がそうしたように。


8 荻野と南雲の関係

 僕は『稲中』なんかももちろん好きですけど、古谷作品では『ヒミズ』以降のほうが、個人的にはすごく好きなんです。ほとんど少年漫画を読まない僕が――主に読んでいるのは少女漫画――、いくつかの例外的な作家を除いてですが、彼の連載だけは読んでいるのは、やはり古谷実という人が人間を深く描こうとしているからだと思います。
シガテラ』に描かれた南雲さんは気の弱い男性を現実側にぐいぐい引っ張って行っていく女性像で、とにかく愛らしいキャラクターで、女性キャラも好きな所以です。昔から映画や小説によく現れる典型的な女性ですね。『シガテラ』では最後、あれほど愛し合っていた荻野と南雲がその後別れていることが読者には、やはり話題になりましが、これについても言及しておきたいと思ってます。僕は、これも当然かな、と最終話を読んでいて思いました。僕は、荻野が南雲を振った、と思っています。

          

9 荻野と南雲はなぜ別れたのか

 南雲さんは、荻野が予感したように、将来不幸にはなっていかないし、荻野が彼女を不幸にすることもなかっただろうと思えます。しかし荻野が日常を逞しく生きていける大人になったとしても、まだ弱い自我を捨てきれてないんじゃないのかと、僕には大人になった彼を想像しても思えてしかたないのです。

シガテラ』の最終話では、荻野は一人前のサラリーマンとなっています。いじめられっことは違い、随分逞しくなった印象で、立派な社会人となったのです。しかし、人間はそんな簡単には変わることはできない。
ヒミズ』や『ヒメアノ~ル』で闇に直下していく人物を古谷実はしつこく描きつづけましたが、人間の闇とはそんな簡単なものではないです。闇を逃れ得たように見える大人になった荻野も、いつなんどきさらなる「闇」に触れてしまうことになるかわかりません。これは荻野だけじゃなく、どんな人間もそうなのです。
 降りかかった困難から逃げてはいけないというのは、それがずっと人の心のうちに生きつづけるからです。推理小説などでは謎が解き明かされることで解答が与えられますが、儀式的作業が与えられるだけの話です。人生に解答なんてありません。
シガテラ』では南雲さんは日常を逞しく生きていくキャラクターとして描かれてあり、弱い荻野を引っ張っていってくれる存在ではありますが、「闇」を理解する人間ではない。もし「闇」に対峙したとき、彼女のような存在こそ最も安易な対策方法をとってしまうには違いないでしょう。荻野は南雲さんのような明るく強い存在になにより愛情を覚えていたはずですけれども、彼女は実は無知なだけなわけで、荻野が彼女に、また彼女が彼に、失望を後に覚えていく事態は間違いないはずです。結局恋愛というのは「失恋」が主であり、夢とは挫折の連続で、男女は異質である、他人は他人である、そのどうにもならなさを自覚することが青春の終焉であり、人生の終わりなんです。
 南雲さんとはいっしょにいられないかもしれない、と思ったとき、荻野は本当に大人になったといえるかもしれません。人間の闇と、そして光のなんたるかを経験的に理解したからこそ、荻野は困難を実は乗り越えたとは思ってはいないはずなのです。

 

終 これからの古谷実 

シガテラ』はサブカル系の人たちにとっては熱狂的に迎え入れられた作品でした。『モテキ』のサブカル厨の主人公の――TVドラマ版のほう――部屋の本棚にしっかりありましたし、サブカル好き芸能人で有名な成海璃子さんも『シガテラ』が好きだとTVでいっていましたね。オードリーの若林さんは、『稲中』にははまらなかったのに、『ヒミズ』以降の古谷作品はぜんぶ持っているとラジオでいってました。
 金太郎飴みたいに、同じテーマで何作も何作もなぜ話を描くんだ、という古谷作品に対する批判は一般には確かにあるのですが、ダメな主人公がいて、それを好きになる美人が都合よく現れて、犯罪の匂いがあって、とそのパターンが繰り返される作風は、僕が思うに、やはりこの人生に降りかかる問題が解決しないからだ、と思えてしかたがないわけです。

 でも、それこそが僕的には非常にリアルな古谷実の世界であって、とにかくこれだけぐいぐい話に読者を引き込んでいくストーリーの手腕はただごとじゃないですし、女性のキャラクターも抜群に魅力的です。『サルチネス』(2012―2013)については、また書きたいと思っています。

 (以前のブログ記事に加筆訂正しました。)

 

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コーネリアス小山田圭吾さんとのツーショット、珍しいですね。