読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

坪内祐三さんと会った夜

 

 キュレーターの方と編集者の方に、ある都内のバーへ連れて行ってもらった夜のことだ。

 ぼくは下戸なんだけど、そのときはまだビールくらいはちょっと飲んでいた。もう二軒目だったし、はっきりいって、帰りたいな、と思っていたんだけど笑 しばらくするとキュレーターの方の仕事場の女の子とかもやってきて、その子がめくちゃくちゃかわいい子で、おまけに去年までマンチェスターに留学していて、ブランクーシの影響で彫刻を勉強していて、ジョイ・ディヴィジョンも好きだというので、帰るに帰れず(帰れるわけがない)、女の子としゃべっていたら、もう深夜も零時をとっくに過ぎようとしていた時刻、ひとりの背の高い男の人が、ふらっと店に入って来た。

 それは文芸評論家の坪内祐三さんだった。店の常連のひとりらしかった。

 キュレーターの方が、「飲みに来ているだけなんだから、平気だよぉ、いけいけ!」とかあおるので、ぼくは坪内さんに話しかけてみることにした。

 坪内さんの本をそんなに読んでいたわけじゃなかったけれど、ぼくは坪内祐三さんが紹介する本や、好きだといっていた作家がぼくの好みにあっていたから、とても興味を持っていた評論家さんだった。

 声をかけてみると、振り返った坪内さんは想像していたより、がたいよくて、話しかけるの最初怖かったけれど、めっちゃいい人だった。どこの馬の骨ともわからないぼくなんかとちゃんとしゃべってくれて、ぼくは小説の話をしたかったから、いろいろ質問したのだけれど、その夜結局話されたのはこんなことだった。

 ぼくは坪内さんの趣味をわかっているところがあったので(姑息)、最初は小島信夫小山清の話をしたのだけれど、坪内さんはしばらくぼくの話を聞いたあと、うーん、と唸って手を振って、こうぼくにいった。

「君みたいな若いのは、小島信夫なんて読んじゃダメよ」

「……じゃあ、なにを読めばいいんですか?」

スタンダール読みなさい」

スタンダールですか? 読みましたけど」

「ああ? そう、じゃ、もう一回読みなさい」

 かなり酔っておられるようだった。

「じゃあね、そうだなあ、次はトルストイ読みなさい」

「『戦争と平和』ですか?」

「『アンナ・カレーニナ』でもいいよ、とにかくトルストイトルストイ

 坪内さんがトルストイ好きだとは聞いたことがない。小説を書きたいと思っている、といったぼくのために、そういってくれたのだ。もう坪内さんはそんなことなどすっかり忘れていることだろう、あたりまえだ。会ったのはその一回きり。

 それからぼくが席を離れたあと、しばらく坪内さんは店の方と、ぼくとはしなかった小山清の話をされていた。「最後は失語症になっちゃってさー」「ええ、そんな大変な人生?」「太宰治の弟子だよ、小山って、悲惨だね」

 アパートに帰って、ぼくは疲れていたのにもかかわらず布団に潜らずに、本棚の奥のほうにあるスタンダールを引っ張りだした。『赤と黒』だ。読み始めると、夜が明けてきた。それから徹夜で仕事へ行った。以来『赤と黒』は何度読みかえしたかわからない。大切な本の一冊になったのは、もちろんこの夜のことがきっかけだった。

 もう、ずいぶんスタンダールを読んでいないな、と気づいた。今、スタンダール読みなさい、とぼくにいってくれる人なんて誰もいない。ぼくは今もう自分の小説を書きはじめている。