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躍動と回帰 ― 桃山の美術 出光美術館へ行ってきました

美術展覧会レビュー

 

 東京丸の内出光美術館で開催されている「日本の美・発見Ⅹ 躍動と回帰 桃山の美術」に行ってきました。個人的に出光はもう何十回も通っている美術館なので、「また観たものばかりかな」と思ってあまり期待せずに行ったんですが、これは企画内容それ自体が素晴らしいものといってよいです。最近出光だけじゃないですが、「企画」がとても意義深いものが多くて、「日本美術が日本人自身の手によって見直されてきているのかな」というような感想をすごく持った、またひとつの展覧会でした。

 

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www.idemitsu.co.jp

 桃山時代とは、西暦では16世紀末から17世紀初頭にあたり、日本では戦国の激動の時代だったのは、誰もが知るところです。その時代性と呼応するように、美術作品にも大きな革新が起りました。展覧会のタイトルとなっているとおり、そのひとつの要素は「躍動」(破壊)であり、もうひとつは(原点)「回帰」です。日本最大にして唯一の「ルネサンス」が、このとき起った、といってかまわないと思います。それがどういうことなのかを提示していくのが、今回の出光の展覧会です。それはみごとにその内実を具体的な展示作品によって鑑賞者に訴えてきます。

 

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「伊賀耳付水指」

「第1章の『うしろ向き』の創造 ―歪み・割れ・平らかさ」では、その名のとおり歪んだり、割れたり、一見失敗作にしか思えない陶芸作品が陳列 されています。この水指、誰もがきっとどこかで観たことがあると思いますが笑、やはりこの「伊賀耳付水指」は群を抜いて異常な存在感でしたね。

 このような敢えて破壊する創作行為がなぜ「美」として、この桃山文化において花開いたのか。それらは通常なら「失敗作」「へたくそ」、なにより「美しさ」とはもっとも縁遠いものなのですが、実は日本において、その片鱗はすでに鎌倉時代において現れており、それを変革し昇華させたものが桃山美術の真相である、というのが、この展覧会の最大のテーマだといってよく、たとえばそれを説明するように、次のような作品が並列して展示されていました。

 

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宇治橋柴舟図屏風」(部分)

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柳橋水車図屏風」(部分) 

 両方とも同じ頃に描かれたものです。(桃山~江戸期でしょう)。上の「宇治橋柴舟図屏風」は、古来の日本のやまと絵の技法を踏襲した典型的な屏風です。下の「柳橋水車図屏風」は、やはり同じ『源氏物語』の「宇治十帖」の情景を題材として扱ったものですが、やまと絵とはかけ離れています。いわゆる「留守模様」=登場人物を描かずに特定の情景のみを示す作品として描かれています。つまり作品の「抽象化」が行われているのです。作者は前者は不詳ですが、後者は長谷川派(長谷川等伯が師匠)によって手がけられたものです。驚かざるをえないのは、どちらも素晴らしい屏風であることに変わりがないということです。

 絵師たちは古来の日本の伝統的なやまと絵を捨て去って革新に走ったわけでもなく、古きものを捨てずに大事にしたのではなしに、その「古典」にこそ革新的なものを発見したわけです。そしてさらに新しい現在形の解釈さえ施した、ということが象徴的に見てとれる例です。「革新」とはいったいなんなのか。その真相がはっきり提示されたふたつの作品だといえます。

 

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「松に鴉・柳に白鷺図屏風」(部分) 長谷川等伯 

 会場はぜんぶで五つに分れています。「第2章 なつかしてく、身近なもの ―草花・樹木と動物たち」では、中国からの影響を脱し、さらに日本独自の美を見出した桃山の作品が、次々と紹介されていきます。

 その時代の筆頭にあげられるのは、もちろん狩野派でしょうが、傑出したのはやはり長谷川等伯(天文8年・1539年― 慶長15年・1610年)でしょう。狩野永徳の最大のライバルであった天才絵師等伯の絵は、中国の牧谿からの大きな影響下で描かれたことは有名なんですけれど、たとえば今回展示されていた「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は、牧谿が叭叭鳥を描いたのに対し、等伯はそこに鴉を描き、親子の情愛という題材を用いて、小動物に情感を与える極めて日本的な美を掬おうとしているのが見てとれます。叭叭鳥は日本には存在しない鳥だからです。

 ぼくは今回久しぶりに等伯の絵を観ましたけれど、やっぱり凄いと思いました。豪快にして繊細、これほどの余白をとった大胆な構図、さらにこんなスピード感のある筆さばきで描かれたものは、それまでなかったんじゃないでしょうか。ここには作者の荒い息遣いがあり、なによりそのひとりの人間の手による痕跡が、情感をみごとに絵に与えているわけです。

 

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「志野沢瀉茶碗」 

 同じく「第2章」で展示されていたものを、もうひとつ紹介しますが、今回の展覧会は絵よりも、陶芸作品が圧倒的に多いんですけど、志野、織部、古唐 津、高取、備前、伊賀と、ほとんどの有名骨董品が勢揃いしています。長次郎の有名な「黒楽茶碗」「赤楽茶碗」両方の展示もありますし、本阿弥光悦の「赤楽兎文香合」もありました。個人的にぼくは志野焼がとても好きで、これなんかは長いこと見とれてしまいましたね。

 さらに「第3章 瞬間と永遠の発見 ―土の動き釉流れ」では、永遠を一瞬に捕えようとした桃山の美を見つめ、「第4章 『あべこべ』の表現 ―流派の領分とその越境」では、本来墨で描くべきものをそうしなかったり、正反対の技法を駆使した、まさに破壊的な桃山の美が紹介され、「第5章 生のうつわ、水のうつわ ―桃山茶陶、その『生気』の系譜」では、生命の根源としての水を用いるその道具を紹介する中で、生と死、祈りや精神性の深さを見つめようとした桃山時代の陶芸家たちのその「迫真性」を明示しようとしています。「第6章 『いま』をとらえるための過去の視点 ―風俗画の隆盛」も見どころがありましたし、さらに「特集」と題して桃山時代に華やいだ南蛮蒔絵の展示もありました。この桃山時代という激烈な「革新的な文化」を多方面から捕えようとする意図が、この展示会には濃厚にうかがえました。

               ※               ※

 出光は小さな美術館なので、ほかの館より展示品が少なく、今回もその意味では物足りないところも正直いってありましたが――その分料金は格安です!――、今回の「企画」は本当に歴史的にも意味深いテーマだったと、ぼくは思いました。

 あくまで「私見」ですけれど、桃山時代においてこそ日本の近代化は起った、というのがぼくの持論で、その裏付けとして革新と回帰があるというのがそれで、今回はそれをまさしく証拠づけられたような気がしました。ぼくはこの時代において、「日本の美」は完成したのだと思っています。桃山から江戸にかけての文化を、明治時代以前の「助走」ととらえる風潮が片方ではあるのですが、ぼくはこれには疑問がずっとあるのです。

 ぼくが今回の展覧会でとにかくいちばん考えさせられたのは、たとえば陶芸作品など、誰が作ったものなのかはわからないわけです。しかし、あくまで「無名」ながらもひとりの人間として存在性を残そうとした作家性がこのような今日にも通じる日本の職人的意識を生み出し、精神性の奥深い文化を作り、有機的に連鎖する日本の美を追求させたのだと思います。欧米、中国にとっては、今回紹介されたような桃山文化の「歪み」「染み」「割れ」などは、まったく「負」でしかないものでしょう。しかし《破綻》することに味わいを見出すこの被虐的な美意識は、たとえば江戸の名残を匂わす夏目漱石谷崎潤一郎の小説などを読むと、その痕跡がわかるものがあります。なぜそれら破綻して被虐的なものが美なのか。最も有名な日本の絵師集団、幕府のお抱えであった狩野派も、やまと絵とは無縁ではなかったことが、今回の展示では証明されているのもみごとです。

 会期は8/8(土)~10/12(月・祝)までです。開館時間は10時~5時まで。金曜は午後7時まで開館しています。日本美術は恒例のごとく、展示替えがあるので、詳しい事柄は出光のHPをご覧になって出かけたほうが賢明だと思います!