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レオス・カラックスの「アレックス三部作」における血について

映画

 

 早い時間に眠ってしまったので、変な時間に起きてしまった。べつに書くことはなにもない。昨日は仕事を早めに終えて、病院へ行って、今月出そうと思っている小説の校正をしていた。

 病院からの帰り、突然だけれども、フランスの映画作家レオス・カラックスの映画のシーンを思いだして、外苑前辺りで、はっ、とした。

 こういうことが、ぼくの場合よくある。デジャヴというのとは違う。フッサールの「現象学的還元」に近いものかもしれない。突然ある「物質」から、べつの「物質」が惹起され、記憶、が手繰り寄せられる。小説ではありていの「形而上学」的主観性であり、芸術用語でいえば「シュールレアリズム」みたいなものだ。

 個人的には、妄想、といっている笑

 体はそこにあるのに、意識は時空を超えて、飛んでいる。イメージはさらなるイメージを産み、それは連鎖し、なにか奥深いところにある≪真実≫に辿り着きそうになるのだが、電車の扉がガタンと開いて、意識が現実に返り、なにがなんだか、すべてを忘れてしまっている。サラリーマンたちで賑わう電車内の日常の光景がそこにあり、いつもとなにも変わりはない。ただそこに貼りついたイメージだけが、鮮やかに残っている。

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 ぼくの母親は、ぼくが大学に入学さえすれば、すべては上手くいく、と思っていたようだ。上手くいく、というのはとても曖昧ないい方だけれども、我が家はとても「不幸」だったので、母親はぼくを、ずっとダメ人間だといいつづけ、でも大学に入れば上手くいくんだから、と物心ついたときから、いっていた。なんとなくそういう「ストーリー」を下支えにして、頑張っていたのだ。それが彼女の「生きる意味」だった。

 実際ぼくはダメ人間だった、と思う。それが母親にそういわれたから、そうなったのか、手厚く育てられてもそうであったのか、知る由はない。母親は、ぼくの着ているものから顔のことまでダメだしをしつづけたが、現実的にダメ人間であったかどうかは実のところは関係がない。ぼくが結婚に臆病なのは、親が子供に影響を(否応なしに)与えてしまう、その恐ろしさを身を持って体験しているからにほかならない。親になる責任が怖いからだとずっと思っていたが、もう少し複雑なものがそこにはあるようだ。実際の対人関係を分析していて気づいた。ぼくは大人になっても、極度のコミュ症だが、これは相手に自分の影響を与えてしまうことを怖れる、という心理的作用から、たぶんもたらされている。

 ぼくは誰からも干渉されたくないし、出来うる限り誰にも干渉を与えたくはない。「冷たい人」だとよくいわれるが、しかたがない。人と人が結びつくことで、そこに「温かみ」が溢れる、というイメージが、どうしても湧かない。そこには嫉妬や憎しみや競争や誤解や傷心だけが生み出されつづけ、恐ろしいのは、それは「連鎖する」ということである。

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 さらに言語学について、書こうと思ったけれど、浅学菲才だし、余力がない。ただ大学で言語学概論の講義を聴いていたとき、とてもよく覚えているものがあって、古来の言葉と現在の言葉の文法やその意味合いは異なっているわけだが、実際は「言葉」というものは、現実的に死ぬことはなく、それは“生き残りをかけている”という、言葉の実体性に、ひどく衝撃を覚えた。つまり、ぼくらが今略したり、まるきり真逆の意味合いで用いたり、現実的に使っている言語は、数千年前に祖先が使っていた「言語」と関わり合いがないものは一切ない。

 これは人間の存在も同じだ。

 存在に切断はない。つまり、死、とは物資が消えることであって、痕跡は消え去らない。突然たとえばある人が思わぬ悲劇に襲われることがあったりしても、そこには〝なにかしらの理由〟があるのであって、もちろんそれは三文推理小説のように現実的に解決される類の理由ではなく、歴史的に連鎖してきたものによる、解決しようもない理由、のものだ。まさしく「形而上学」とは、このことを意味しているし、文学も美術も音楽も、すべてこれを表現するものにほかならない。

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 ぼくは家が貧しかったので、15歳のときからアルバイトをしていたが、大人になれば生きることの苦しみはなくなるのだ、と思いこんでいた。これは母親の「息子が大学に入りさえすれば」という心理構造と非常に似ている。そうしないと頑張れなかったし、生きられなかった。とりわけ「恋愛」には過度な期待を抱いていて、それに挫折した20歳の頃の絶望感は、相当なものだった。実際10代の頃の多感な時期は、誰もが他人を傷つけずにはいられず、傷つかずにはいられないものなんだろうし、現実に体験談を述べてしまえば、どこにでもあるような失恋の類に過ぎないものだけれども。

「大学に入りさえすれば安心」と思っていた親は、さっさと父親と離婚をし、姉といっしょに家を出てしまった。ぼくは途方に暮れた。まだ16だったり17だったりした頃は、どれだけ暴力じみていても「家」という帰属場所が存在したが、19のときにもうぼくの一切の家族も故郷も消失した。19歳といえば、世間的にはもう大人なのかもしれないが、少なくともぼくはやっていけなかった。ぼくの人生はその頃を境に、はっきりと下降して今に至っている。親が悪いという話じゃない。どういう人生だろうが、それはすべて自分の責任だ。つまるところぼくがこの不幸な人生に「生きる意味」を、それ以降も問いつづけてしまった、ということが問題だという話を、ここに書きたかった。

 フランスの映画作家であるレオス・カラックスは、ぼく大好きなアーティストのひとりだ。彼の長編デビュー作の『ボーイ・ミーツ・ガール』(1983)では、親友に恋人を寝取られたダメ男の主人公アレックスが、出会ったこともない女性に恋をする。そのヒロイン役のミレイユとキッチンで愛を語らう場面は、ぼくのお気に入りのシーンのひとつで、映画史においても重要で魅惑的なものであるだろう。

 アレックスは、自分は今映画を撮ろうとしていて、そのタイトルを考えているところだ、といい、でも、自分は負け犬のまま人生を終わりそうだ、とつぶやく。ミレイユは別れる覚悟を決めている同棲中の恋人のことを考え、洗面所で自殺未遂をしようとし、その鋏で自らの髪を切る。ひとりアパートに帰ったあと、ここでもう一度その身体の一部を切り刻んだ「鋏」が登場するが、彼女は再びその刃を自身に向けずにはいられない。さらにここに溢れる血は、次回作の『汚れた血』(1986)における、“血”にほかならず、この血脈は、アレックス三部作における第三作の『ポン・ヌフの恋人』(1991)に再び登場してくる。

 生きることの意味を誰もが探している。

 けれども、そのもがき苦しんでいる有様は、実は、「生きることの意味」から逃れようとしていることが、ままある。「理想」と「現実」のギャップに、苦しみ、というものが滑りこんでくる。それは必ず肉体や現実の表面にも現れる。それは血を流さずにはおかない。

 

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