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八月の光 ウィリアム・フォークナー


「存在は切断されない、それは必ず連鎖する」というテーマで、レオス・カラックスの「アレックス三部作の映画」、美術家のハンス・ベルメールの「少女マネキン人形の写真」について、とつづけて記事を書いたんですけれど、最後にこのテーマでもうひとつくらい記事を書こうと思って、フォークナーにしました。
 理由は単純で、ぼくが最近フォークナーの『八月の光』(1932)を再読したからです笑。
 あと、当ブログにおいて、日本の近代小説の記事ばかりぼくは書いていて、海外小説にはひとつも触れていないことに気づいたので、いい機会かな、と思いました。

 ぼくはトルーマン・カポーティの影響で小説を書きはじめました。けど、フォークナーがいなかったら、カポーティも存在していなかったでしょう。カーソン・マッカラーズもユードラ・ウェルティもフラナリー・オコナーもいなかったでしょう。それだけじゃなく、その後のガルシア・マルケスらに代表されるラテンアメリカ文学も存在しなかったといえます。それくらい20世紀文学において、フォークナーという作家は影響力を持っているのです。日本の作家ですと、井上光晴大江健三郎中上健次が、フォークナーの影響を受けています。

 

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

 


『八月の光』のストーリー・序盤

 リーナというお腹を大きくしたまだ若い女性がミシシッピ州にある≪ジェファスン≫という町にやってくるところからこの物語ははじまります。彼女はルーカス・バーチという男性を探しに、アラバマからやってきたわけですが――≪ジェファスン≫はフォークナーが小説に用いたアメリカ南部にある架空の町です――ルーカス・バーチは彼女の恋人で、彼女のもとから突然いなくなってしまったのです。その《ジェファスン》で、彼女がまず出会うのがバイロン・バンチというひとりの労働者の男なんですが、バイロンは一目でリーナに恋をしてしまいます。そしてそこから、物語は大きく膨らみはじめていくことになります。

 この物語は一方向軸ではなく、いくつかの人物に焦点があてられ、ストーリーが複層を持っています。主役格はクリスマスという青年といっていいでしょうけれど、フォークナーの小説の多くは、このように重層的な構成を持ち、話が過去へ過去へと遡行する性格があります。しかし、『八月の光』は、同じ代表作であるとされる『響きと怒り』や『アブサロム、アブサロム!』ほど、構成は複雑じゃありません。フォークナーに挑む最初の作品として、とても相応しいと思います。

 リーナが探しているバーチという男には、唇に傷があった、ということで、バイロンは「彼女が探している人物は自分と同じ仕事場にかつていたブラウンではないのか」と勘繰ります。彼はバーデンという風変わりな中年女の家へ度々行っていて、当時法律で禁止されていたお酒を密売していたと噂がたっていた男で、実際派手な車に乗って気前がいいブラウンを、バイロンは見たことがありました。だから彼はいずれ掴まってしまうだろうと、彼を探しにきたリーナを不憫に思います。彼には相棒がいました。それがクリスマスです。小説は前半から中盤にかけて、彼に大きく話題は移っていき、話は複雑化され、時間も逆行していきます。

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 この小説の話の流れは、ブラウンの話をバイロンからハイタワーという牧師が聞いている、という設定がまずあり、そこからクリスマスへと繋がる構成です。ハイタワーの奥さんは過去に淫乱な噂があったのち不慮の事故で死んでいるのですが、それはある種「呪われたもの」だとして、町で噂がたった過去がありました。ハイタワーは以前雇っていた黒人の召使と関係を持っていた、だから奥さんはああなったのじゃないか、という「秘密」があるわけです。住民は牧師を煙たがっているようです。でもバイロンは親しくしています。その危ない商売をしている、町で忌み嫌われているバーデン家が火事になる事件が起こります。彼女は首を切り落とされた死体で発見されました。その火事のことはわりと小説の最初のほうに出てくるんですが、リーナはその火を町に来るときに見ているわけです。「あれはクリスマスがやったのに違いない」とバイロンは思い、リーナに恋をしていることも含めて、牧師に相談しにきたわけです。ここでブラウンが賞金目当てで、警察にクリスマスが犯人だと事故のことを訴えたエピソードが出てきます。そして決定的なことが語られていきます。クリスマスというその男には、黒人の血が混ざっているのだ、ということです。

 

『八月の光』の舞台となっている南北戦争について              

 その後のストーリーを語る前に、この作品がテーマに持つ、当時の20世紀初頭のアメリカの南部の特質について考慮しておきたいと思います。
 アメリカで南北戦争があったのが1861年~1865年です。南北戦争は奴隷制度を主張する南部諸州の11州が「アメリカ連合国」を結成し、いわゆる北部側の「アメリカ合衆国」と争った戦争です。結局北部側が勝利して戦争は終結しますが、黒人は名目上奴隷制度から解放されるわけです。もちろんそれですべてがめでたしめでたしとなったわけなどなく、フォークナーの南部を舞台にした多くの小説は、その後も生き続けているその〝歴史〟が問題視されています。

 では、南北戦争後のアメリカでは、なにが切断されず、連鎖されているのか?

 フォークナーという作家は白人です。直接的な黒人側からの差別の訴えとは、異なる考えを持っているのは当然です。フォークナーはその自らの文学において、白人の側にも黒人の側にも、実のところ立っていません。正しくいうのであれば「アメリカ南部の混沌」に身を置いています。アメリカにおいて、戦争が終わったあと、なにか「意味づけられないもの」として、黒人問題は残ったのです。フォークナーが描いているのは、同じ黒人問題であっても、例えばラディカルな黒人ラッパーたちが反発する主義主張の問題ではなく、「南部アメリカの白人問題」です。

 南北戦争以前は南部では黒人は奴隷として仕事を与えられていました。それは確かに歪な形であったのだとしても、白人と黒人は共存して、生活していたわけです。工業生産や機械化で経済を建てる北部と違って、南部は農業地であり、多くの労働者を必要としていて、黒人は格好の労働者であり、さらに女性たちは家政婦として職を与えられていました。しかし、黒人たちが奴隷制度から解放され、すべては一変しました。戦争後、黒人の地位があがったわけでもなければ、当然黒人が白人同様の生活レベルを保つこともまたない。いつの時代の戦争というものがそうであるように、先勝国側が「歴史」を作ったそのあとに、〝闇〟が残るわけです。日本も同じです。フォークナーはそれを描いているわけです。

 

『八月の光』のストーリー・中盤以降

 小説はリーナの序盤の話から、1/3辺りから急速にそのクリスマスという黒人の血を持った青年に焦点が絞られていきます。

 彼が実際に火災を犯した犯人なのかは、小説内では、この辺りでは、はっきりとはまだ描かれていません。ストーリーはクリスマスとブラウンが共同生活していたバーデン夫人の家の話から、やがて彼の過去の話に遡行していきます。

 彼は私生児として施設で育ちました。クリスマスの日に捨てられているところを発見されて、クリスマスと名付けられたのです。施設にいるあいだ、歯磨きのチューブを少しずつ食べるという癖があったりします。栄養士の女性が、彼に情事を目撃された腹いせで、番人に、「彼は黒人の血が混じっている」といって、そのことからか、男が幼いクリスマスを連れ去るという事件があったりもします。そんな折クリスマスに養子縁組の話が持ち上がります。彼は貰われていくことになるのです。

 しかし、そのマッケカン家で、彼は暴力に目覚めていくことになります。それは彼にもコントロールできない「見えない内なる暴力」です。

 マッケカン家の父親は敬虔なキリスト教信者であり、「怠惰」や「悪徳」などに対してとても厳しい人です。クリスマスに対しても常軌を逸脱した躾をします。信仰心の熱い彼は生い立ちの憐れな息子を更生させようと教育しているつもりなのですが、クリスマスにとってみれば、それはある種神への憎悪を膨らませていくことにしかなっていきません。なによりそのことに気づかない養父の「無知」によって、彼は暴力に目覚めていくのです。

 暴力はなにか、といえば、それは“意味づけられないもの”“名づけられないもの”を「意味」づけようとするときに起るものです。クリスマスは自分を解放させるために反抗的態度や秘密を持ちはじめていきます。

 一つ大きな出来事として、あるエピソードが起ります。町に行くようになったクリスマスは、ボビーという給士女と知り合うのですが、彼女は売春婦です、やがてそのことが養父にばれて、現場を取り押さえられて、クリスマスが椅子を振り回して養父を殺してしまうという事件が起こってしまうのです。クリスマスは家を離れ、逃亡の旅に出ます。そこで辿り着いたのが≪ジェファスン≫だったわけです。さらにバーデン夫人のところです。これがこの小説の中盤辺りなのですが、ここで、ようやく最初にあったバーデン夫人殺害の事件のことに話が戻っていくことになります。

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 物語はこの辺りから佳境に向かうので、さらにストーリー内容を、語っていきます。

《ジェファスン》という町でバーデンと知り合ったクリスマスは、彼女の家で暮らすようになります。バーデンはスペイン系の血が混ざった移民で、黒人に関する仕事をしていました。理由は父親がひどい白人優位主義者であって、なぜ父親がそんなふうだったのかわからないのですが、とにかく小さい頃から、その父親の姿を目の当たりにして育ってきて、黒人に憐れみを覚えているのです。
 クリスマスはここでそのバーデンにある種分裂した感情を育んでいくように見えます。このふたりの関係性が、この小説の最大の重要なところだと思えてならないです。

 白人である彼女を憎いとクリスマスは思いながら、自分に食事を与えて身の上話を語る彼女に、それまでにない母性的な思いも芽生えさせていきます。それまで彼は南部の売春婦たちに、行為が終わった後に、「自分は黒人の血が入っているんだぜ」といって狼狽させたりしていたわけです。だからといって、やはり心を許すことはしません。ミス・バーデンが黒人のための仕事をいろいろしているのは、ある種の「赦し」のためだったのだと、次第にクリスマスにもわかってくるわけですが、いわばふたりは、白人と黒人との間の葛藤で傷を持った、似た者同士だといえます。しかし、繰り返しますが、この辺りの性格形成が詳しく書かれていないのは作者の落ち度ではなく、ぼくが考えるに、フォークナーの明らかな意図であって、それは「南北戦争」もまた曖昧な傷痕を残している、というその影響であるからだと思ってやみません。ただひとつはっきりしていることがあります。

 彼女がクリスマスの面倒を看るのは、彼に懺悔をしてほしいからです。クリスマスは結局のところ自分の黒人の血を受け入れられないのです。だから暴力的にならざるを得ない。これを沈めるにはどうしたらいいか。一人深く考えてずっと黒人のために働いてきたバーデンはわかっているのです。黒人は忌々しいものである、という周囲の声ではなく、内なる声に耳を傾けることができたら、救われるのです。彼女は彼とのあいだに愛を見ようとしているのがわかります。けれどもクリスマスはそれに応じません。悲劇が起きます。

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 バーデンは自らピストルで頭を打ちぬいて自殺します。これが事件の真相でした。

 そういう意味では、彼女もまた結局愛に裏切られ、内なる声を信じ続けることができなかった人だったといってよいです。この衝撃は、小説中、生々しいの一言に尽きます。

 動揺したクリスマスはそのピストルを手に持ったまま、彼女の家から脱けだすんですが、ヒッチハイクをして捕まってしまうことになります。捕えられたときにクリスマスは≪ジェファスン≫に近いモッタウンという町にいるんですが、そこにハインズ夫妻という老夫婦が住んでいます。そのお爺さんのドック・ハインズが、彼がバーデン殺害の件で捕えられたときちょうど現場に居合わせます。どうやらハインズ夫妻はクリスマスのことを知っているらしいんですけれど、やがて実情が明らかになっていきます。

 クリスマスは保安官に逮捕されて留置所に入れられますが、ハインズ夫人が彼に会いに来ます。しかし、会えないとわかると、夫妻は≪ジェファスン≫向かいます。「淫乱と憎しみだ、淫乱と憎しみの種だ!」という言葉を残して。

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 さらに小説はこの後、バンチとハイタワーの会話に話が戻ってゆく構成になっていき、バイロンがリーナと出会った話を、ハイタワーにする場面から大きく逸脱して、クリスマスの話へ、そして彼が掴まってハインズ夫妻という老夫婦が現れるまでが描かれたあと、バイロンの出来事へと、ここで長かった過去の話が終わって、ようやく現在に戻ってきます。
 バイロンは、身ごもったリーナと結ばれたい、それを牧師であるハイタワーに赦しをもらいたくて、ついでにクリスマスやブラウンやらのことをぺらぺらしゃべっていたわけです。リーナをクリスマスが住んでいた場所へ住まわせ、自分はその近くにテントを張ることを訴えるのですが、その告白をハイタワーは受け付けません。ハイタワーはバイロンに「悪魔に世話をされている」といいます。そしてその災いはこの≪ジェファスン≫そのものに今吹き荒れているというわけです。

 町中が事件のことで話題沸騰になります。クリスマスが捕まったことを聞きつけたバイロンは、ハイタワー牧師を再び訪ねます。そのとき彼はふたりの老夫婦を連れています。それがハインズ夫妻です。ここでクリスマスの出生が明らかとなるのです。ふたりはクリスマスの実の祖父母なのです。ハインズの娘がどこかわからないメキシコ人の男とのあいだで孕んでしまったのが、まぎれもないそのジョー・クリスマスであり、後にそのメキシコ人男性に黒人の血が混ざっていたとわかったのです。娘のミリーは出産の後に死に、もうこの世にはいません。悪魔の子としてジョーは呪われ、結局捨てられてしまって施設に拾われたわけです。このときバイロンがふたりを連れてやってきた理由は、彼らはもう苦しんだ、彼らがここにやってきたのはクリスマスの事件当日のアリバイ作りに加担してほしいという、頼みごとのためです。しかし、ハイタワーはそれをもまた受諾しません。

 犯人として捕まったクリスマスは、その後どうなるのか。

 新潮文庫の解説には、その結末がはっきりと書かれてあるので、いってもいいと思いますが笑、長くなってしまったので、ここら辺りでストーリーの紹介はやめておくことにします。海外の小説は長いものが多いですが、とりわけフォークナーの文学は、すべてのエピソードは見過ごせないものであり、簡単に要約することはできないのです。

 

 ウィリアム・フォークナーらの描いた南部文学

 フォークナーは1949年にノーベル文学賞を受賞しました。彼がそのとき語った演説は、とても有名なもので、語り継がれているんですが、理由は、彼がそこで、人間の希望をまるで純真な子供のように語ったからです。こういう演説でした。

「私は、人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐みを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。」*1

 日本と同様、アメリカにもさまざまな文学があります。なぜ作家が書くのかといえば、解決されない問題が潜むからです。アメリカは移民の国家ですから、人種や民族、宗教の問題は、とりわけ複雑化しています。とりわけ深い闇に眠る歴史的問題は、南北戦争にほかなりません。フォークナーに代表される、黒人問題を描いた「アメリカ南部文学」は、アメリカ文学の潮流の最も代表的なものといってよいでしょう。フォークナー以前には、先行者として『ワインズバーグ・オハイオ』(1919)を書いたシャーウッド・アンダスンがいました。

 ぼくの好きなトルーマン・カポーティプルーストの影響を強く受けたと語っていますが、フォークナーの影響も強いのは間違いありません。代表作の『冷血』(1965)など、よそ者が町で事件を起こして、それが悪魔の仕業や祟りだといって噂され、住民がその「名づけられないもの」に対して、嫌悪感を示す、というテーマが、このフォークナーの代表作のひとつであるとされる『八月の光』と、ほとんど同じなのです。

 南北戦争が残した傷痕とはなにか。彼らがなぜ敵視されるかというと、寝た子を起こす存在だからです。

 町の人たちは平穏に過ごそうとしています。自分たちが抑圧していたなにかを目覚めさせられることを嫌っている。それが南部の白人にとって「南北戦争」という痕跡です。黒人を奴隷として扱うのはよくない。だからこそ、正義が勝利したわけです。しかし、犯人が裁きを受けても、決して事件は解決するわけではないことが、この『八月の光』には明確に描かれています。この小説のテーマはまさしくそのことだといってよいです。

 切断は解決とはなりえない。この『八月の光』では、最初と最後に登場するリーナという女の子の存在がまさしく円環をなすように上手に描かれてあって、彼女の出産する結末に、悪夢の連鎖は引き渡され、この事件は永劫的に解決しないものとして明確に暗示されて終わります。

 

 断ち切れない歴史と、南部に巣食う闇

 とにかくおぞましいと同時に、やりきれなさの残る悲しい小説です。

『八月の光』に描かれた、このクリスマスという苦悩する人物は、黒人、という南部では忌み嫌われている血筋を持ってしまった「自分という存在」、この世界に所属できないこの〝存在性〟を「現実化」したいという欲望に駆られ、暴力に目覚めていきます。

 この手の描き方は、フォークナーの骨頂です。たとえば、『響きと怒り』に描かれた「近親相姦」に憑りつかれたコンプソン家の長男クェンティンなどがそうで、彼らは狂気、または破滅へと向かいます。クリスマスがもともと自らの暴力性に気づくきっかけとなったのが、養父によって鞭で体を打たれるという躾だったわけですが、これは単なる「虐待」を意味する以上のものがそこにはあり、彼は「自分」という存在に対して違和感を持っているから躾を受け入れられず、益々その「名づけられないもの」は、彼の内部で力を加えられ、膨脹するわけです。その「名づけられないなにか」は暴力としてエスカレートされていくしかない。それは“連鎖”するのです。

 この小説では興味深いエピソードがあります。

 クリスマスが売春婦と寝たときに、自分が黒人の血が入っている、というと、女たちは狼狽するわけですが、北部でそれをやると女たちが平然としている、という描写があります。もちろん「北部」では一切の差別がなく、黒人も白人も同等に権利を与えられているというわけではないのですが、差別感覚が違うのです。クリスマスは自らの黒人の血を呪いながらも、差別の少ない北部へ旅立とうとはしません。
 ここで重要なのは、「アメリカ南部」において、北部よりも根強く黒人差別が残っている、ということではありません。かつては南部のほうが、白人と黒人は階級差があれど、治安を保って生活していたわけです。これは「治安」の問題であり、「歴史」の問題です。南部の白人たちは、自らの手によって歴史を変えたのではなく、変えさせられた、奪われたわけで、「アメリカ南部」そのものが、その南北戦争や黒人問題について、主体性を失い、「名前をつけられない」わけです。
 そこでは黒人は「奴隷」から、白人たちには今度はなにか意味のわからない忌々しい存在となっている。クリスマスの悲劇は、その出生が示すがごとく、所属できないこと、名づけられないこと、が原因なのです。

 

 アメリカに内在する病

 フォークナーが描いている南部とは、ある種の宙吊りされた〝歴史〟に翻弄された人間群像劇です。繰り返して、アメリカという国家の歴史を辿ってみることは、無駄ではないでしょう。少し長くなりましたけれど。

 アフリカ大陸から連れてこられた黒人たちは、アメリカ南部で奴隷として最初働かされました。その後はそうではなくなりましたが、法律上は解放されたとしても、翻弄された側の黒人たちは、それで今さらどうしようっていうんだという怒りは収まるはずはないでしょうし、しこりは南部の白人たちにも残ったわけです。違うのは、黒人たちのほうはその歴史上から、自分たちが「意味づけされない存在たち」だ、ということを自覚しているということです。

 彼らが奴隷として連れてこられたアメリカ大陸で見て信じたのは〝神〟です。

 これは彼らがその後にアメリカで為し得た様々な功績、たとえば音楽ひとつとっても、ジャズ~ブルース~R&B~テクノ~ヒップ・ホップは、教会からクラブへと場所を変えても、それを信じる賜物の故生まれ落ちた、神様からの贈り物です。

 また彼らは「物語」(虚構、ストーリー)というものも信じている、ということが大切なことです。この『八月の光』に描かれたバーデン夫人の父親など典型的ですが、白人たちの多くは信仰心を持ち得ません。彼らの多くは現実主義者であり、排他的であり、過去も見つめられなければ、未来も見つめられない。この現実の外にあるものを認められないのです。

 フォークナーの小説は、とりわけ『響きと怒り』(1929)『アブサロム、アブサロム!』(1936)は、いわゆる「意識の流れ」を描いて、前衛で難解で、この『八月の光』も決して直線的なストーリー性を帯びず、複雑な構成を持っていますが、なぜそういう描き方になっているかというと、「物語」を信じられない白人の視点によって描かれているためです。

 この小説で重要な点は、クリスマスとい う男の被った非劇について、この人物に読者があまり感情移入できないということが、最大のポイントにほかなりません。

 確かに彼は不幸な生い立ちなわけですけれど、感情移入しやすい安っぽい犯罪小説のように、いわゆる、苦労をして、だから悪いことをしてしまった、道を逸れてしまった、という設定で描かれてはいません。この黒人の血が混ざった男?は自分でも制御不可能な自己の存在性に気づいてしまい、ただひたすらに暴力性に目覚めていく。その「暴力性」は“歴史”と呼応するものであり、断ち切れないものであり、連鎖するものです。彼の悲劇はこの世界の混沌を 受け入れられないことにあり、それは自分という理不尽な存在を受け入れられないことと同義です。この矛盾した生き物である人間、歴史、資本主義社会というも のを、受け入れられないのです。それが「アメリカ」という国家の抱えた歴史であり、病です。

 それを自覚できれば、誰もが神を信じることができるでしょう。しかし、それがいかに困難であることか。

 この『八月の光』では、悲劇的な結末を迎えるクリスマスを取り巻く周囲の者たちは、彼に対して、それ以上の暴力的な感覚を匂わせていきます。彼はべつに差別されているわけではありません。周囲は彼が黒人の血が入ってい るということに、ただ不穏な空気感を抱いています。白人たちがもっとも恐れているものが、主体性を喪失した〝歴史〟なのです。
 犯人は誰でもありません。解決策はありません。それが現実という切断しえない連鎖であり、作家が書き記すしかない文学の本質なのです。

 ※ 1955年8月にフォークナーは来日しています。「日本の若い人たちへ」と題するセミナーを長野で開催しました。そのときの演説の書籍があるのですけれど、邦訳されていません。こちらのリンク先に、ブログ管理者の方が翻訳されているものがあるので、興味ある方は是非読んでもらいたいです。素晴らしいものです。

Deus ex machina -機械仕掛けの愚か者- : 【本】ウィリアム・フォークナー『エッセイ、スピーチ及び公開書簡集』 - livedoor Blog(ブログ)

 

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