読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

デヴィッド・ボウイが本当に星になった日

音楽

  2016年の1月10日に、デヴィッド・ボウイが亡くなった。もう二カ月以上前なんだけれど、当ブログは冬眠中だったため、ボウイについて書く機会がなかったので、時季外れは承知の上、今書きます。でも、これは亡くなったロック・ミュージシャン追悼の記事じゃありません。未来に向かっての文章です。

 唐突というか、これが趣旨なので文章はいきなり飛躍するんだけど、2014年から2016年にかけて、ポップ・フィールドの中、とりわけブラック・ミュージックの中で大きな変動があったと思う。フラワー・ムーヴメント、パンク・ムーヴメント、アシッド・ハウス・ムーヴメントらの動きとは異質な、もう悲しいかなロックはほとんどオワコンになってしまっているので……その源流は例えばスライ・アンド・ザ・ファミリーストーンにあったりするのが感じられる今回の革新劇に関していえば、それらかつての「ムーヴメント」(同調的)的な感覚は皆無だ、ということは強調すべき事態だと思う。ただなにか連鎖していっている感覚のみそこには確かにあって、また新しい動きがはじまったかなあ、というのは音楽ファンは皆思った、また現在思っていることだと思う。

 2014年から2016年にかけて、重要なアルバムがいくつか出た。こんな感じですかね。当たり前すぎるけど。

First Ya Gotta Shake the Gate

First Ya Gotta Shake the Gate

 
ブラック・メサイア

ブラック・メサイア

 
トゥ・ピンプ・ア・バタフライ

トゥ・ピンプ・ア・バタフライ

  • アーティスト: ケンドリック・ラマー,ジェイムズ・フォンテレロイ,ラプソディー,ジョージ・クリントン,ビラル,ロナルド・アイズレー,K.ダックワーズ,D.パーキンス,マシュー・サミュエルズ,T.マーティン,C.スミス
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2015/05/20
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログを見る
 
★

 

  ファンカデリックはいわずもがなジョージ・クリントン率いるパーラメントとは別枠のファンクの雄。まあ、ディアンジェロは天才なんでなにもいうことはないし、今華々しくスポットライトを浴びているケンドリック・ラマーにしても、それまでのスタイルを引き継ぎながら、新作で新境地へ飛躍したのは、聴いてすぐにわかった。プリンスもここに入れていい。そしてここにボウイも並ぶ。というか、遺作によって、ここに並んだ。

 遺作となったそのアルバム『ブラック・スター』だけれども、ボウイが死を意識していたことは確実だろう。ただ一点だけ見落とすことができないのは、ロック・スターの集大成的自己陶酔感、郷愁が、皆無なのだ。プロデューサーは盟友のトニー・ヴィスコンティ、バック・バンドは決して有名どころじゃないけれども、一流のジャズ・ミュージシャンを揃えている。しかし、リズムはジャズではない。だからといって、なにか前衛的なことをやっているわけでもない。それまで多くのロック・ミュージシャンがジャズやワールド・ミュージックへの傾倒を見せたけれども、あくまでそれは「スタイル」であって、「虚構」を己の方法論として企てた彼の生き様を考えるなら、そんな音楽をいかにも作ってもよさそうだったんだけれども、ボウイはその手の音を、そのキャリアにおいて作ってはいない。スティングとか、トーキング・ヘッズとは、レベルが異質なのだ。今回の遺作となったアルバムは、じゃあ、どんな音楽か、というと、新しい、というしかない。

               ※               ※

 個人的な出来事。

 ぼくは基本ロック畑の人間である。15歳のときにギターに触れてしまって以来、高校ではマイ・ブラッディ・ヴァレンタインソニック・ユースのコピーバンドなんかをやっていた。彼らを褒めたのはブライアン・イーノや、まさしくボウイだった。意外にも初めて触れた音楽は、ぼくはR&Bであって、さらにより深くブラック・ミュージックに開眼させてくれたのは当時の予備校の英語の先生であって笑、「おまえは、これを聴けばいいから」と何枚かのプリンスのアルバムを手渡された。それから大学一年のときに、ぼくはスライと出会うことになる。狂ったように、『暴動』や『ベスト盤』を、繰り返し繰り返し聴き続けた。

 ボウイの遺作は、音楽的には「ベルリン三部作」の延長ともいわれているみたいだけれども、ぼくにはそれはピンと来なかった。明らかに前作から原点回帰しており、総括的な音づくりをしているのは確かだけれども、ただここで、ボウイは死の間際になっても、音楽がまだまだ発展途上であることを理解していた、ということだけは、いわずにはおれない。ここに鳴らされているのは、かつてボウイが手にした音とは違う、と思う。つまり「未来の音」だ。彼は自身の終焉とともに音楽を葬り去ろうとはしなかった。

               ※               ※

 デヴィッド・ボウイという人は紛れもなくロック・スターだったが、ロックはむろん、スターからもはみ出してしまった。彼はやはり本物だったのだ。それを証明したのが、この遺作にあたるアルバムだと思う。

 21世紀も長いこと過ぎて、もう音楽も出尽くしたか……、と思っていた矢先、突然降臨してきたのが、出るか出るか詐欺でもう忘れ去っていた、15年ぶりに突如アルバムを発表したディアンジェロだったりしたわけだけれども、今回列挙したアーティストたちの誰もがいわゆる「新人」ではないということも重要な点だと思う。

 ぼくはデヴィッド・ボウイは、中学生のときに、それまでの全アルバムを聴いた。イアン・カーティスエリオット・スミス――両者とも自ら命を絶ってしまったが――ほど思い入れのあるミュージシャンではなかったので、実は胸を張ってボウイの音楽について語る資格などない人間である。ビートルズは「音楽」として聴いても、ボウイはなかなか「スタイル」の枠組みを、個人的に外せなかったのだ。

 イアンやボビー・ギレスピーのせいにするわけじゃないけれどもね笑。「ボウイはそれほど好きじゃない」発言を真に受けてしまったのか。

 ボウイが死んだ日、ぼくの周囲の「ボウイ・ロスのショック状況」は半端じゃなかった。彼がジョン・レノン以上のワーキングクラス・ヒーローだったのは、まぎれもない事実だったのだ、と間近で彼らの子供のように号泣する悲しみに満ちた姿を見ていて、言葉を失った。本当に多くの人間は、ボウイとルー・リードの音楽に、その人生を救われてきた。

 音楽は人を救う。これは疑いない。

 ボウイほどそれを音楽を通してやってきた人はいないのじゃないか。

 とにかく遺作を聴いて思ったのは、誰よりも「古株」であり「権威」であったはずの彼が、己のスタイルをあくまで貫き通して、異常なまでの挑発的な音楽をここで奏でているという驚愕の事態にほかならない。

 おこがましいながら創作に関わる人間として、いっておきたいことがある。自らの過去を省みることが、「劣化」に見えるというのは笑止千万だ。「未来」は「過去」にある。多くの人たちがそれを常に忘れようとするだけの話だ。

www.cinra.net

 来年、回顧展が日本でも行われる。彼の誕生日に合わせて。一年も先だけど。

 高校時代、ボウイの「ジギー・スターダスト」を、自分のバンドで演奏した。今でもコードもリフも覚えている。ジジイたちが未だに頑張っているというのとは、これは意味合いが違う。歴史が死ぬことはない。未来はとっくにはじまっている。

f:id:mannequinboy:20160314142624j:plain

デヴィッド・ボウイダミアン・ハーストジュリアン・シュナーベルという、ぼくの神三人が並んで写っているという、恐るべきスリーショット!