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店員 バーナード・マラマッド

 

 アメリカの戦後文学は、ふたりの巨人アーネスト・ヘミングウェイとウィリアム・フォークナー以降、三つの流れがあった、とされているのが一般的です。ひとつはリチャード・ライトを先駆とする「黒人の文学」、ひとつはフォークナーから流れる、南部の闇を描いた「南部文学」、そしてもうひとつが「ユダヤ系移民たちによる文学」です。

 バーナード・マラマッド(1914-1986)はそのユダヤ系作家の第一世代にあたる作家で、日本でもよく読まれている作家のひとりと紹介されていたのをぼくは以前なにかで見たことがありますけど、少なくともぼくの周囲では読んでいる人なんか誰もいませんね涙。
 でも、確かにちょこちょこ翻訳本が忘れた頃に出たりしていまして、今回紹介する『店員』(1952)(ぼくが所持しているのは、同じ加島祥造さん訳で『アシスタント』というタイトルになっています)が、2013年に突然復刊したので、初期を代表する傑作長編だと思いますので、この本について書きたいと思います。

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  主要人物は、ニューヨークでしがない食料品店を経営するユダヤ一家の夫モリスと妻のアイダ、そのひとり娘のヘレン、そして、その店にふらりとやってきて働きはじめるイタリア系の貧乏なフランクという青年です。まずこの小説を理解するのに、心得ておかなければならない重要なポイントがあるのでいいます。それはまさしく彼らボーバー家族がユダヤ人であるということです。たとえば小説の最初のほうで、こう叙述される箇所があられもなく出てきます。

 

――売り上げが増したというのもこの地下室に住んだ青年が魔法使だったからではなく、彼がユダヤ人でなかったからにすぎない。この近所の非ユダヤ教徒たちは自分の仲間が店にいたのでうれしかったのだ。彼らにとってユダヤ人というのは、咽喉につかえる骨だ。たしかに彼らは、気まぐれだがモリスの店を贔屓にした、そして彼の名を親しげに呼び、してもらうのが当り前のように掛売りを頼んだし、それを彼も以前は、愚かしいことに、しばしば許した――しかしそれでいて彼らは心のなかではモリスをきらっていたのだ。

 

 ユダヤ人というのは、移民の国アメリカにおいても、「忌み嫌われる存在」であることが、ここに明確に示されています。実際的に、世界的に見てどうなのか、ぼくにはわかりません。ただ歴史をひも解き、これまでの見聞を知るのならば、少なくともこの『店員』という小説において描かれたユダヤ人像は、さして誇張されたものではなく、事実だと受け取っても差し支えないものとして描かれているといっていいと思います。

 貧しい食料品店を経営するボーバー一家は、自分たちの不幸は「ユダヤ人であるため」であり、そしてその苦しみを背負う矜持もまた、彼らのアイデンティティーとなっているのが前提とされているうことが、この本の根本です。もちろん著者のバーナード・マラマッドはユダヤ人でした。

 

『店員』に描かれた文学的深層

 この『店員』という小説は、わずかな主要人物に限定され、場所もNYの貧民街と狭い範囲に定められています。小説というより、舞台演劇に似ています。プロットは非常に緻密で展開が多いです。だからといって波乱万丈なストーリーが豊かに描かれているわけではなく、文章の色調は一貫して暗く、人々には不幸と不安、さらに謀略や裏切りが渦巻いています。心理描写が緻密に描かれているわけではないので、この辺りは実に説明が難しい作品といえます。つまるところ、この小説に胚胎した意味は奥深い、ということを、とにかく最初に述べておきたいと思います。
 この本に描かれた意味深さは、このフランクという主要人物の「わかりづらさ」にあるのはほぼ間違いないでしょう。三人称小説ですが、彼が小説の進行状況の重要な中心人物です。作者は彼を使って読者をどのような境地へと誘おうとしているのか。この小説は淡々としながらも、現実色豊かに描かれてありますが、リアリズム小説ではありません。さらにユダヤ人から見られた狭い世界観のみならず、もっと普遍的な世界への問いを投げかけ、人間の深さに食い込んだ世界を描きこもうとしています。

 ぼくが読んでいるのは古い新潮文庫版なのですけれど、裏表紙にこう書いてあります。

 

「社会的成功を夢見る孤独な若者フランク・アルパインは、貧しい食料品屋に強盗に押し入るが、罪の意識に駆られてその店にまい戻り、店員として働くようになる。社会の底辺に一生をうずめる馬鹿正直なユダヤ人の店主や、美しく向上心に燃えるその娘との接触によって新しい価値観に目覚める青年の遍歴を通して、困窮と貧苦の中においても人間性を失わぬ人間の真の尊厳性を描く」

 

 この『店員』という小説は、改悛や尊厳性などと一言ではいえない世界を描いており、そんな単純な小説ではない、とあくまでぼく個人の意見ですが、いっておきたいと思います。


 ストーリーと解説 1

 モリスを主とするボーバー一家の「悲劇性」は、彼らがユダヤ人である、という点にある、と最初に書きました。そもそもこの点にこそ複雑な様相があるのです。そのことを留意しながら、ストーリーを語っていくことにします。

 小説内に登場する同じユダヤ系であり、やはり商売をしているルイス・カープは、いわば闇商売をすることで銭儲けをしています。モリス一家が貧しく辛い生活を強いられているのは、彼らが「ユダヤ人」であり「迫害されているから」とはいいがたいです。これは小説を読み進むにつれて、次第にわかってきますが、彼ら一家が貧困であり苦悩に満ちているのは、単に店主が「バカ正直だから」という性格に起因して説明することでは済まされない“なにか”があります。「苦しまなければならない」というユダヤ人が背負った重たい歴史性に自ら縛られているためだといえばそれまでですが、その苦悩が能動的なところが興味深いわけです。

 娘のヘレンは、両親のように自分が極貧に喘いで生きて死んでいくのはまっぴらごめんだと思っています。とても強い上昇志向の持ち主の性格です。彼女は経済上の都合で希望の大学進学は諦めましたが、文化的教養を高めようと日々必死であり、未来に対して大きな夢を抱いています。現在は裕福で大学院に通っているナットという青年とつかず離れずの関係にあり、この心の揺れはフランクが店で働きはじめるようになって、決定的に変化します。ヘレンの中でフランクの献身さと誠実さに心が傾きはじめるのです。彼女は彼への気持ちを「愛」だと確信して口にするわけですが、ここにロミオとジュリエットばりの定石的な恋愛の困難が立ちはだかってくるのは当然で(実際『ロミオとジュリエット』がこの小説には、フランクがヘレンに贈り物としてプレゼントする場面が登場する。)、母のアイダは強いユダヤ教徒であり、イタリア系の人間などといっしょになるなどとはもってのほかだ、と考えています。なので、たとえばナットのような人物と将来を育んで欲しいと思っているわけです。

 ヘレンはナットに以前のように愛情を覚えておらず、なぜなら彼が考えているのは所詮世間を渡っていく出世や金銭欲のことで、ヘレンはもっと人間として向上していく野心を抱いているのです。この辺りの「恋愛関係」は、先ほど定石といいましたけれど、二葉亭四迷の『浮雲』や夏目漱石らが描いた一連の小説ともよく似ています。彼女がフランクを愛するようになるのは、自分に似た気持ち、お金ではないなにか、をフランクに見出してしまうからです。

 ふたりはたまたま極貧の境遇に生まれ育ったに過ぎない。だからこそ誰よりもよりよい人生を求めざるを得ない。ヘレンのこの凄まじいまでの、とりわけ母親アイダに対する反抗心は、思春期のそれだと片付けてしまうことは不可能で、彼女が最初はまったく気にならなかった、つまりこんな落ちぶれた青年とは絶対に恋に落ちないタイプだと思っていた対象であったフランクを気にかけはじめるのは、家庭内問題というより、正しくいえば抜き差しならない「ユダヤ的問題」が根っこに突き刺さっているからにほかなりません。

 一方フランクは、孤児院で育ったいわゆる不良青年です。学もなく、職も転々とした生活を送ってきました。彼は今述べたようにヘレンと似てこのまま自分がしがない人生を送るのはいやだと思っており、社会的成功を夢見ています。フランクがモリスの店で働くようになったのは、店主のモリスが強盗に押し入られたときに怪我をして休養をとらざるをえなくなり、変わり者が必要だったことが原因でしたが、実はフランクこそが、彼の相棒のミノーグとこの店に強盗に入ったその人物にほかなりませんでした。そんなフランクの敢えて身をさらすような危険な行為、モリス家に姿を現し、それだけではなくそこで働くなどという突飛な行動に出た理由は、実はフランク自身にもよくわかっていないのです。確かに罪意識もあったででしょうし、実際フランクの口で説明される台詞もあるわけですが、この辺りは複雑で、作者のマラマッドはもっと奥深いものをここで語ろうとしています。彼の心を最も揺り動かしたのは、店主のモリスの生き方、考え方にあるのは疑いありません。

 先にこの小説は複雑な様相を持っていると述べました。このようなところに現れる「矛盾」は、ボーバー一家がなぜ耐え苦しんでいるのか、それが「慎ましさ」や「正義」などでは片付けられないものがあるのと同様のものが、作者の手によって潜まれているためです。
 この小説の鍵は、作品の終盤に差しかかるまで描かれません。そして実際物語が終わりを告げた後も、はっきりしないままだといっていいと思います。この小説は極めて精緻なリアリズム的手法で描かれながら、リアリズムとしての結論を提示しません。またここには宗教観に支えられた下地があり、実際そういう「抽象性」を読み取れないならば、この小説はその深さの片鱗も感じられないでしょう。
 人物らの矛盾を説明しないこの物語は、けれども、それらの性格や動向を少しずつ追うにつれ、読む者に、なにか、を感じさせていくのです。

 この小説の最大のテーマは「生きることの苦しみ」とはなんであるのか、ということであるのは基本的には間違ってはいません。ボーバー一家が率先してその苦しみを引き受け、実は無意識ながらも、フランクが彼の店を訪ねるのは、そのような一般から考えてみるなら意味不可解な、苦悩に引き寄せられた、というその“苦しみ”の本質に迫りたかったためにほかなりません。フランクは「ユダヤとか、なんとか、そんなもの関係がない」という場面がありますが、実は彼こそがそれを拭いされない張本人なのです。フランクがこのように思う箇所が、小説中にあります。

 

 しかし強盗をやる晩になって、彼は自分が怖気じけているのに気づいた。車のなかではウォードもそれを感じとり、彼を罵った。フランクはこれをやりぬかねばならぬと感じた。しかしあの食料屋へはいってハンカチを顔に巻きつけたときになって、このすべての考えがばからしくなった。それが心の中からしゅっと抜け出てゆくのを感じた。彼が思い描いた犯罪はみんなそこにくたばってしまったのだ。この惨めさは息もできぬほどであり、今すぐに通りへ飛び出して姿を消してしまいたいと思った。しかしウォードひとりをそこに残しておくわけにはいかなかった。奥の部屋で、ユダヤ人が頭から血を流している姿を見ると、彼は自分が最も悪質の間違いを犯した、消しがたい大変なことを犯したと悟った。かくしてたちまちに彼の犯罪生活は終わりをつげ、彼の夢想の世界も消え果て、彼は自分の犯した多くの失敗の網に絡みとられていた。こうしたことを、すっかりモリスにいつか話そうと思った。きっとあのユダヤ人は哀れに思ってくれると彼は知っていた。

 

 フランクという人物を一言でいうのならば、自分の考えと違う考えを持っている人間を無視できない人間といっていいですし、自分に正直な人間です。フランクのモリスに対する振舞は、いわば牧師に罪状を告白しようとする罪人の感覚に似ています。そういうふうにとらえれば、この小説が、一種の宗教的輝きを放ちはじめることはわかると思います。
 ボーバー一家の生き方考え方。そのユダヤ人としての向かい合い方が、正しいものであるかどうか。重要なのは、モリス、アイダをはじめ、ユダヤ人の中には、人間は苦しまなければならない、という感情があり、ユダヤ人こそがその命題を背負った民族だという選民意識としての矜持が拭えないことです。フランクはなぜ、自分もまた苦しんで生きなければならないのか、と彼らに引き寄せられていきます。しかし、罪の浄化どころか、ストーリーはさらに悲劇的で矛盾した状況をもたらしていくだけです。

 

 ユダヤ人作家としてのバーナード・マラマッド

 バーナード・マラマッドは1914に生まれています。ちょうど第一次世界大戦がはじまったときで、彼の多感な少年期は、まさに世界恐慌の時期と重なっています。ロシア系のユダヤ人の血を引き、小説家になる前は教師を勤めていました。

 彼の小説は例外なく「ユダヤ民族」の問題が底流としてあります。代表的な戦後のアメリカのユダヤ人作家は、マラマッドのほかでは、フィリップ・ロスがやはり代表格でしょうか。『オーギー・マーチの冒険』を書いたソール・ベローはノーベル文学賞を受賞しています。サリンジャーの『ライ麦畑』もユダヤ文学なんですね。

 とにかくぼくはアメリカの戦後文学の中ですと、マラマッドが強烈に好きなんですけれど、ぼくが読んだ中では、『修理屋』(1966)が最も優れているという印象です。帝政末期のロシアを舞台にした作品で、やはり舞台劇のような作品構造を持っているのですが、内容はこの『店員』より、さらに苛烈で、そのためいっそう、迫害された民族としての人間の本質に迫っています。もちろん主人公はユダヤ人です。

 最初に読んだのが、新潮文庫の『マラマッド短篇集』で、ぼくはこの作家が大好きになったのですが、今は岩波文庫で『魔法の樽』として出版されていて読むことが可能みたいです。ほかにも、2009年に出版された、柴田元幸さん訳の『喋る馬』という、マラマッドの短篇を編集した本が出ていまして、『レンブラントの帽子』は、夏葉社から復刊されています。ただし、以前の八篇収録ではなく、三篇収録なので、要注意です。『トゥービン氏の冬』(1979)も絶版ですが、古書では入手は簡単だと思います。

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

 
喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

 

『店員』は、彼の二作目の長編作です。ぼくがマラマッドでいちばん思い入れの強い作品が、これといってよいです。とにかく衝撃を受けてしまって、これまでに四回くらいは読んでいます。ここに満ちている貧しさ、苦しみ等、ドストエフスキー的ともいえる、極めて近代小説的な問題を真正面から扱っている技量はいささか古臭い印象もしますけれど、さらにそれぞれの人物描写に焦点をあてていく描き方も王道であり、それは素朴かつ誠実な味わいに満ちた筆致で人間の尊厳を問うています。しかし、ユダヤ人の性質を、このようなリアリズムの観点で直視した作品は今なおないんじゃないかな、と思うんです。

 重要なのは、この点です。

 発表していった作品群を見ても、マラマッドは己のユダヤ人の特性にこだわりつづけているように見えますけれども、実はその「こだわり」の中にこそ、ユダヤ人を越えた普遍ななにかをつかみとろうとしていることに、疑いがないわけです。


 ストーリーと解説 2

『店員』の中盤では、忌み嫌っていたヘレンがフランクと恋仲に陥って、ふたりの仲が急速に接近していく様子が描かれることに多くのページが割かれています。結末においても、このふたりの関係こそが重要な役どころなわけですが、ヘレンは葛藤を抱えたまま、自分の夢を諦めて、フランクを支えて成功してほしいという将来さえ現実的に考えるほどになります。彼女はフランクの欲望をなかなか受け入れません。彼に本当のところで誠実さを感じられないからではなく、自分がユダヤ人である、ということと、この辺も実は強い要因があるのです。
 アイダは様子がおかしいと、娘のヘレンを尾行します。とうとうふたりがキスをしている場面を目撃し、憤怒します。「ユダヤ人以外の男とは付き合うな!」と娘に怒鳴ります。ボーバー一家で、最もフランクに懐疑的な気持ちを拭い去れなかったのがヘレンであることはいいましたが、加えていうのならば、もっとも冷静にユダヤ人について疑義を持っているのもヘレンといってよいわけです。それを抑圧しようとするアイダという人物の役割りは、小説中非常に重要な役どころとして効果をもたらしています。

 ヘレンがフランクと一線を越えられないのは、自分が背負わされている苦悩を彼がきっちり見つめてくれないからといえるでしょう。彼はユダヤ人ではありません。しかし、これも複雑です。すでにユダヤ人であるというよりユダヤ系アメリカ人であるヘレンにおいては、関係がない、といってもいい問題とも思われる点もあるわけです。現実的にも彼らボーバー一家ユダヤ教の集会に通ってはいません。とにかく、自分がどうであれ、ユダヤ人の歴史を背負わされていることを――小説内では一見貧困層に喘ぐ彼女の個人的葛藤にようにしか描かれてはいないけれども――彼には気づいて欲しいわけです。

 フランクは、自分の不幸な生い立ち、これまでの貧しい暮らし、行ってしまったこれまでの悪事、それらを悔い改めるチャンスをうかがっている様子が、小説中ずっと描かれつづけます。ボーバー家の娘であるヘレンと結ばれることは、その自分の罪意識が浄化され、将来への道が正しい人間のそれとして開けていくことを示していると感じます。しかし、事態は上手く運びません。
 一緒に店に押し入ったミノーグがフランクを訪れ、「ぜんぶばらしてやるぜ」と脅し、ミノーグはヘレンを襲うまでの行動に出てしまいます。そのとき幸いにもフランクが彼女を助けるわけですが、そのとき一瞬ヘレンはフランクを本当に信じかけますが、フランクはこのとき弱ったヘレンを無理矢理強姦してしまう、という自分でも不可解極まる暴挙に出てしまいます。
 この事件には、伏線があります。フランクはそれまで店の小銭を少しずつくすねていたわけですが、それをモリスにとうとう見つかってしまいます。「出て行け!」と怒鳴られたばかりだったわけです。結局フランクという男は大きな悪事を働くことはないけれども、少なくともその不幸な生い立ち故、生粋の悪党であることからは脱け出せられない人間です。しかし、彼が悪事を働くのは、彼が正しさを求めるからこそともいえます。これは実はモリスが自らのユダヤ性にこだわっているところと似通っているのです。彼の望みは悪として生まれ育っても、自らが改悛するそのときが来れば、正しい人間になれる、という希望を見出すことです。

 バカ正直ではずれ籤ばかり引いているボーバー家と、フランクは自らの「宿命」に縛り付けられているという点で、実は共通していることが、読者にははっきりとわかってきます。彼らは共に苦境から脱出しようと試みながら、その最大の苦悩の要因である「宿命」について、自らで縛りを解きません。しかし、氷解は訪れます。相容れるはずのない「他」と「他」が、数々の誤解と障害と困難を潜り抜けた果てに、「宿命」は打ち砕かれるのではなく、打ち解け合うのです。

 最後の最後です。ヘレンがフランクに対して、このような述懐をする場面が描かれます。

 

 人間には奇妙なことがある――人間は外見が同じに見えて、しかし変化していることもあるのだ。以前の彼は低級で、汚らしかった。しかし彼のなかにあるなにかの働きで、――そのなにかを彼女は明瞭に言えなかった。たぶんフランクが忘れ果ててふたたび思い出した記憶とか理想とかいったものだ――それによって彼は別の人間に変わっていたのだ、もはや以前の彼でなくなっていたのだ。その点に今まで気づかなかったとは、彼女も迂闊だった。彼があたしにしたこと、あれは悪いことだったわ、とヘレンは思った。でも彼が心の底から改めた以上、彼はあたしになにも負債はないんだわ。

 

 これはいささか図式的過ぎ、一方物語上ドラマチックすぎる結末ともいえますが、マラマッドの意図は最初からこの結末(相互理解)にあったのは間違いないでしょう。大きな夢を見たふたりの若い男女、フランクとヘレンは、最終的には両親と同じように、小さな下町の食料品店を経営する夫婦になることが暗示されてこの小説は幕を閉じます。つまり夢は果たされず、苦しみも浄化されません。しかし、この小説は長い話を終えて、ひとつの「希望」に辿り着くのです。

 このことが意味しているのは、ぼくが考えるにおいてこういうことです。

 

 人はなぜ苦しまなければならないのか

 よくある心理学や自己啓発本では、逃れられない宿命をこそ断ち切らねばならない、と書く口当たりのよい著者が後を絶たないです。ひどいときは、前世で悪いことをしたのだ、という人までいます。何故それほど人は「苦しむ」ことを、悪徳にしたがるのか? ネガティブな人物、気持ちとは縁を切るのが適切などと説く風潮は、なにも今にはじまったことではありません。小説はそれらとは異質な解答を人間に導きます。

 マラマッドはこういう箇所にこそ欠落しているものを見て、この小説を書いたのだとぼくは思います。それはまさしく、人間、です。人間は人間である限り、苦しまなければならないのは当然であり、矛盾した存在であるのは当たり前のことです。もちろんそれに回答を見出そうとし、もがくこともまた当然のことですが、「偽りの解答」で安堵してしまうケースがなんと多いことか。つまるところ、正しさこそが人間を苦しみさせ、宗教を生みださせ、また文学などを作りだしてきたのは疑いがないものです。人は自らの「宿命」的なものから、易々と逃れることはできないのです。
 古来から、多くの文学的テーマはひとつだ、とぼくは思っています。ぼくはこれを誠実な作家か、そうでないか、に分類する指針にさえしていますけれど。とにかく、人は「宿命」からは逃れられない、ということです。それは永劫的に継続していくのです。そしてそこにはまさしく悲劇としか呼びえないものが現れざるを得ません。しかし、まったくの絶望ではない。そこにどのように光を与えるかが、文学の使命であって、マラマッドはこの小説に希望を確かに書いているわけです。
 最終的に、このどうしようもないフランクはヘレンと結ばれユダヤ教徒となるわけですがが、これは「改悛」を意味していません。彼はモリス同様、永劫的に己の犯した罪を背負い苦しみつづけることを選んだということです。ぼくがこの小説で最も好きな場面があります。モリスとフランクの会話です。

 

「とにかくぼくのわからないのはね、モリス、どうしてユダヤ人がこんなに苦しむのかという点なんだ。なんだか、ユダヤ人は苦しむのが好きみたいだけど、そうじゃないかな?」
「あんたは苦しむのが好きかね? 彼らはね、ユダヤ人であるがために苦しむのだよ」
「問題はそこなんだ、ユダヤ人はその必要がないときさえ苦しんでいるみたいなんだ」
「生きているかぎり、人間は苦しむものだよ。ある人々は他人よりもよけいに苦しむが、それも苦しむのを欲しているからではない。ただわしが考えるには、もしユダヤ人が律法を守る苦しみに耐えられないようなら、なに一つ耐えられないということだ」
「モリス、あんたはなんのために耐え忍んでいるの?」とフランクは言った。
「わしは君のために耐え忍んでいるのさ」とモリスは静かな口調で言った。
 フランクはテーブルに包丁を置いた。驚いたように口を大きくあけ、「それ、どういう意味だい?」

「言いかえると、君がわしのために苦しみに耐えているということだ」

 

 こういう箇所にこそ、この小説の最大の本質が潜められていると思います。問題は解決せず、罪は赦されず、苦しみは継続しつづけます。でも、そこに希望があるのです。

 

 人が苦しまなければならないことには意味がある

 バーナード・マラマッドというユダヤ人作家が書いた『店員』という小説のこの結末を見るならば、この作品が実際のところ立場の違うふたつの者らが、非劇の中で、同じ問題に直面していることは明白であり、その悲劇を手 放さないことによってこそ、分かち合えていくことが描かれているのがとてもよくわかると思います。

 彼らの悲劇とは、彼らがユダヤ人として生まれた、不幸な生い立ちで 育った、という、単純なところにあるのではないことは明らかです。悪事を働いた人間はそれを改悛せねばならず、人間はよりどころを求め、自らの民族性に矜 持を持たざるを得ないのも自明です。しかし、ここで最初に述べた、なぜボーバー一家は、ユダヤ人がといってもいいですけれども、苦しまなければならないのか、と いうならば、それは「苦しみ」こそが人と人を繋げるただひとつの神から与えられた人間の美徳だからです。

 フランクがボーバー家とどう和解するか、その罪が 改悛を迎えるか、この世界に罪の浄化が存在するのか否か。この小説の明確なポイントである、人間が自らの宿命を振りほどけなければ浄化されるはずがない、 というのがリアリストの考えであるならば、マラマッドはまったく異なる回答をこの小説において提出したのは明らかです。この地味で、あまりにまっとうすぎる小説において、そして新しいアメリカ大陸という希望の国において描かれた小説において、彼はまったく新しくない見解を、だからこそこのような小説の形で新鮮に述べている わけです。
 現実は、それを浄化することが正しい道だと説き、実際にはそうする人間こそがますます悲劇に巻き込まれていきます。そして実はそのことが周りめぐって、作家マラマッドはこの小説において、改めて「ユダヤ人」が持つ特性をとらえ直そうとしているのも疑いがないことでしょう。


『店員』に描かれた文学性

 訳が古い、という読者の方もいるみたいですけれど、ぜんぜんそんなことはありません。翻訳者である加島祥造さんは、文庫本のあとがきも素晴らしく(新潮文庫版です)、ぼくがこんな長文でぐだぐだいうよりずっと本書の意味合いをいい尽くされているように思います。加島さんはこう書いています。

「結 論だけ言えば、この物語の結末ではフランクの中にある正統キリスト教思想とボーバーのなかにあるユダヤ思想の融合が暗示されている。「自己の行為への悔い 改めと私欲を捨てた愛」と、「律法の定めた正を行うためにいかなる困難も耐えようとする精神」――大まかに言えば以上のような二つの精神が、貧しい一青年 の心の中で合体しようとする瞬間で、この物語は終わっている。ニューヨークの下町の、墓穴のような食料品屋だけを舞台にしたこの小さな物語は、二つの大き なヨーロッパ思想の接触と結合という意外に大きなプランを蔵しているのである。」

 強引にヘレンを我が物にして しまったフランクは、一度ひどく惨めな落伍者となっていきますが、彼はルイスが病床に倒れたことを都合にして、なおもボーバー家の店に留まります。近所に安売 りの新規店が出来ることでますます貧困にあえぐ未来がはっきり見えてきたとき、自らの懺悔したい気持ちを伝えたいため、彼は他店で働いた金銭を店の売り上 げにこっそり加算したりもします。しかし、モリスだけではなく、ヘレンからの信頼を回復することもなかなかできません。
 それからも様々なことが起ります。わざと 火災を起こして、保険金を出させて、その分け前をいただこうとそそのかしてくる人物が現れたりします。実際に貧困と病気から、モリスはそれを半ば行動に移そうともします。結局モ リスは店を売り払おうとして、新しい職場を探し求めますが、以前のパートナーであった、まさしく自分を騙して儲けた張本人のところへ頭を下げに行ったりし ます。

 ミノーグはカープの家に強盗に入ろうとして、火災が起きてしまい、カープの店は燃えてしまいます。カープは驚くような値段で、モリスの店を買取たい と一度相談してきますが、心臓発作で倒れたカープとの相談は、結局ご破算になってしまいます。
 この小説では悲劇はますます雪だるま的に大きくなっていくばかりです。幸運や解答や救済はどこにも見当たりません。結局モリスは凍えた雪の中を歩いて肺炎になって、無残な死にざまを見せるにいたります。しかし、彼の苦しみは打ち解けあうことのなかった「他」と「他」を愛し合うことを可能にしたのです。この苦しみこそ、人間にとって最もかけがえのないものであり、まさしくフランクが追い求めていたものだったのです。