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幼児狩り・蟹 河野多恵子

 ぼくが戦後に活躍した日本の女性作家で最も尊敬する方が河野多恵子(1926-2015)さんなんですが、晩年まで精力的に執筆をされ、傑作を次々と書き継ぎながら、惜しくも2015年に亡くなられました。

 個人的には、河野多恵子さん、金井美恵子さん、江國香織さん辺りがぼくの好みで、作風は御三方ともぜんぜん違いますけど、実はその底流には、戦後の女性作家の躍進を考えた場合、通じるものがある、と考えています。

 それで河野さんはなにをレビュー作としてとりあげようかな、と考えたところ、あくまで個人的な見解ですけど、彼女の文学的軌跡を俯瞰してみると、わりと波があったりします。作品によっても、出来不出来も激しいです。好みも大きく働く懸念もあります。たとえば初期の頃の傑作長編と名高い『不意の声』(講談社文芸文庫)は今も書店で手に入ると思いますけど、初期の頃はあまり長編作は上手くいってないんじゃないか、とぼくはまあ思っています。

 ぼくは最初、河野作品については、全集でぜんぶ読んでみようと思ったんですけれど、漏れている作品もあることに気づいて、単行本を古書で全作揃えて、順番に読んでいったんですね。たとえば「春愁」という短篇作品とか、全集には入っていないんですよ、すごくいい作品なのに。

 それでやっぱり最初に手にとるのであれば、入手が容易くて初期作品がよいのかな、という気がします。河野文学とはなんぞや、という真髄を知るためにも。

 

幼児狩り/蟹 (新潮文庫 こ 9-1)

幼児狩り/蟹 (新潮文庫 こ 9-1)

 

 

  この新潮文庫『幼児狩り・蟹』には河野多恵子のデビュー当時、芥川受賞作の「蟹」を含む、6つの作品が収められています。書かれた期間は、1961年から63年にかけて。短期間で河野多恵子という人が自身の「文学性」を開花させたことが、この作品集によってわかると思います。そもそも彼女の処女作であたる「幼児狩り」に、その後の河野氏の小説のモチーフが凝縮して表れています。

 

「幼児狩り」

「幼児狩り」は小品といってよい短篇です。幼い男の子に異常愛着を示す中年女性の話で、語り口は三人称ですけれど、エッセイ調というか、その心理描写も「自然主義小説」そのままの感じといってよく、あまりに平坦で工夫がなく素朴です。そのように一見見えます。

 主人公の中年女性は幼い男の子に強烈に惹かれる偏愛があります。けれど女の子には嫌悪感を示します。この感覚を、というより、河野多恵子の小説観そのものを、赤裸々に作中で語られている部分が、この「幼児狩り」の中に出てきます。

 

 その時期の女の子への嫌悪感というものは、冷たくしたり、いじめたりしてみてもどうにもならないような性質のものなのだ。

 その感情は、昌子が、美貌で幸福で高慢な同年輩の女性や、威張りざかりの少年や、独善的な老人などを厭う気持ちとは全くちがっていた。蛇のきらいな人、猫のきらいな人、蛙の嫌いな人などが、それぞれの小動物に対して抱く嫌悪感の方がまだしも近いのだ。

 

 これは傍から見ても、かなり屈折した心理というか、一見意味がわからない性格というか、端的にいうのなら「個人趣味」です。しかし、だんだんと密やかに小説を通して浮かび上がるものは、「善」と「悪」との混濁化した矛盾する世界を通して表れる、ひとつの人間の本質に宿る不気味さと いってよいものです。

 河野文学においてはページを捲るにつれ、平凡な日常の奥底に胚胎したリアリティーが読みとれていきます。小説の主人公の女性は夢の中で、幼児を虐待していく様子を、思い巡らせていきます。

 

「劇場」

 次に収録されている「劇場」にいきます。これはけっこうな谷崎的な小説世界で――河野多恵子自身谷崎潤一郎の文学に圧倒的な影響を受けていると自身で公言していますけれど、河野文学と谷崎文学との関連性については後に述べます――、ここに描かれているのは、単純にマゾキズムを通して表れる聖と俗との逆転劇といっていいでしょう。作品としてみれば、「幼児狩り」より、こちらのほうが完成度してまとまっています。その逆転劇がまさしく〝劇場〟なわけです。

 河野多恵子の小説のひとつの特徴として、その「反社会性」があるわけですけれど、だからといって彼女は反社会的な事柄を小説に追求しているわけではなく、そんな一見〝悪〟や〝無頼〟を気どる小説は無数にあるわけですが、その〝悪〟がどのような形で浮かび上がるものなのか、それが作者の手によってどのような偏執的な追求によってなされているか、というところが問題だといえます。

 そもそも文学作品には、どのようなものも必ず「複合的」な矛盾が作品内に内包されているのが普通ですけれど――だからこそフィクションなわけです――、この「劇場」の主人公の妻も、ドイツへ行ってしまった健全な夫と、オペラの会場に姿を現した醜い〝せむし男〟との間で、その心を揺さぶられる、というストーリーですが、それが単なる心境の変化として表れる対比、ではなしに、小説世界の中に〝悪〟を浮き彫りにする必然的な理由付けとして、一見〝善〟とした「表の社会」が執拗に並べられているところが、異様です。

 しかし、谷崎を標榜して本来作品を構築するなら、この「幼児狩り」と「劇場」との2つのモチーフの両方を注ぎ込んだものを作るべきだったろうに、と読者は感想を抱くとぼくは予想します。実際「幼児狩り」には作者の〝嗜好〟が描かれていますが、日常が逆転される構造は描かれていません。「劇場」にはその逆転劇は描かれていますが、何故それがもたらされるのか、その作品の持つ醜悪な〝嗜好〟の要素は希薄です。

 たとえば夫婦生活が上手く行っていないという主人公の女側の理由付けはちゃんと書かれてあるわけですが、それだけで極度な〝マゾヒズム〟に走ったり、〝せむし男〟に惹かれたりするリアリティーを読者は納得はできないので、やはりそういう観点からは説得力に欠ける部分があるのは、この作品においては否めないでしょう。ただし、ここには突出した固有の〝作家性〟が存在しているわけで、この二作品でとにかく河野作品の原型は現れているといっていいと思います。

 

「塀の中」

 それで「塀の中」は100枚くらいの中篇小説なんですけれど、これはそれらの読者の〝物足りなさ〟を消化しきった、完全に河野文学が開花した初期の彼女の傑作です。遠藤周作などもこの作品を絶賛していますけれど、先述したふたつの問題がみごとに融合し、さらに歴史的背景も説得力をもたらすものとなって、作品が重厚なリアリティーを帯びています。

 戦時下の工場に、泊まり込みの女工として働く正子の元にひとりの幼い男の子が迷子になって紛れ込んできます。彼女はその子を工場の自分の部屋で母親代わりに面倒を看はじめます。「子供を母親の下へ帰してあげなければ」と思う一面もありながら、「このまま子供を自分の元へ置いておきたい」という矛盾する心境の葛藤に悩まされます。これは「戦争」という非日常の舞台が用意した、あられもない〝女の本性〟であると同時に、「日常」をもまた揺るがしていかざるを得ない、限りなく〝原始的感覚〟のものです。彼女は心が揺れますし、自分の本性もまた剥き出しになっていきます。「非日常的な空間」は、あらゆる矛盾した人間の本性を吐露します。そしてその個々の本性は、互いに決して溶け合うことはないのです。

 たとえば、この作品の優れたところとして、工場を牛耳る強圧な中尉が登場してくるんですが、正子の行為が発覚した後、彼は正子を無論なじるわけですけど、その中尉の行為もまた「悪」であるとは、小説の中では追求されていません。こういう点に、河野多恵子が追求する文学性がまさしく潜んでいるといってよいでしょう。それってどういうこと? と感想を抱かれるかもしれませんけれど、読んでみるとよくわかると思います。

 

「雪」

「雪」は「劇場」と並んで、初期の河野多恵子の素晴らしい作品のひとつだとぼくは思うのですけれど、あまり作者自身は気に入ってなかったようです。これは彼女の初の芥川賞候補作になったんですが、次にやはり候補作となった「美少女」と同じく、受賞を逃しました。「塀の中」が「戦争」という社会的空間を舞台とした中での〝個人の嗜好〟を問題化する小説であったとしたら、「雪」は、「家族」という日常的な装置を舞台にしています。そしてそのことにより、より根源的な〝個人の本性〟を不気味にかつ美しく描きだした作品だといえます。この作品ぼくはすごく好きなんですけどね。

 主人公である早子は、母が死ぬことで、それまでの持病との付合い方ではない心境へと、自分を通過儀礼させようとします。自分の痛みの〝根源〟に出会うため、雪の降り積もる土地へとその体を埋めていきます。そのとき結婚に踏み切れないで、もたもたしている彼女は、単なる女ではなく、神聖な〝ひとりの女〟へと、変貌を遂げていく、というのが、この「雪」という作品のストーリー及びテーマです。

 この作品は自らを仮死状態にすることで、死んでいく者への痛みを共有しようとする「鎮魂小説」と読んでも差し支えがない類のものであるといってもいいと思います。

 ここに描かれた早子の木目細やかで、残忍な大人への通過儀礼は、たとえばぼくにはヴィクトル・エリセの『エル・スール』(1983)等の繊細な少女の感性を描いた静謐な映画を想起させてやまないです。描かれた小説の内実は、いかにもショッキングで、ぼくはほとんど実話のように読んだのですが、やはりこれもまた巧妙に作者の意図の元に作られたフィクションなんです。でも、事実であると思いたい、と願わずにはいられないほど、この話には説得力があります。河野多恵子小説群で執拗に追及される余りに残忍な嗜好の類は、何よりその〝起源〟を読者に想起させて止まないものがあるのです。

 

「蟹」

「蟹」は第49回芥川賞受賞作品です。じゃあ、それまでの作品よりずいぶんな傑作じゃないのか……と思って読むと、肩透かしを食らう、と思います笑。だから、といって悪い作品だという意味じゃないです。枚数も短いですし、これまで以上に淡々とした作品だ、という意味です。

 この作品では他人の子供――正確には、甥――と、見つからない蟹を求めて必死に探しだそうとする女性の姿が、奇妙な生々しさを持って描かれています。一見とりとめのない、ただそれだけの話のようにも思えます。でも、或る種の人生の縮図がここに凝縮されています。

 主人公の女性は結核患者ですが、彼女が真に熱望しているものは、病気の回復という〝現実との絆〟ではなく、夫婦、家族、血縁、それよりもさらなるもっと根源的な〝精神的絆〟に及んでいることが、読んでいくと感じられてきます。「塀の中」でもそうでした。彼女は義理の弟が残していった子供を携え、いわば〝仮母親〟の役割を擬似的に演技することで、その根源的な何か、をここで取り戻そうとしているわけです。現実的にいってしまえば、それは「夫婦の絆」なんでしょうけれど、その執拗なまでの追求は、決して他人には――夫にさえ――わからないものであり、そして〝蟹〟を見出すことだけが彼女の生活のぜんぶになっていき、そんな彼女に安住の地などないのです。この姿に作家河野多恵子そのものを投影してしまうのは、たぶんぼくだけじゃないでしょう。

 

「夜を往く」

 最後に収められた「夜を往く」は、「蟹」と趣向の似た作品です。この頃河野さんは様々な方法論を駆使して作品を書いているんですけど、「夜を往く」はそのひとつのタイプの成功作といってよいと思います。

 二人の夫婦が仲の良い友達夫婦と〝夫婦交換〟をしようと企てた夜、行方知れずとなったその友達夫婦を求めてさ迷うお話です。そのとき「普通の夜」であったはずの町が、その「失踪譚」によって、だんだんと不思議に映っていきます。空き家や、寺や墓、それらが奇妙な生々しさを持って迫ってきます。ちょっとした遊び心がもたらした現実のズレが、いつしか人物を失踪させ、時制を解体し、日常の風景を並々ならぬものへと変貌させていきます。これはそのあまりに〝リアリズム的〟な描き方だからこそ可能だった河野氏の手腕であって、彼女のひとつの特質が如実に現れた好短篇でしょう。

 

 河野多恵子の文学性

 河野多恵子という作家は戦時中に少女時代を過ごし、戦後、主に1960年代になってから活躍しはじめました。登場した頃は30代半ばを過ぎていて、遅いといっていいと思います。デビュー前はひどいスランプで、まったく筆がとれなかった、とエッセイで綴っています。

 彼女の文学的特徴は、何よりその徹底した「リアリスト」である、というところでしょう――後年に至って変化していきますが――。彼女が〝非日常〟や〝幻想〟を描くとき、それはあくまで「日常」の中において追求されるものであって、夢の記述が出てきてもそれは全く物語の構造に影響を及ぼしません。

 安易な戯れを厳しく禁欲するように、作品は終始「現実の事柄」を眼差します。「過去」は「現在」を揺るがすための装置としてあるのではなく、あくまで〝現実〟を説明づけるものとして描かれます。時制は交錯しますが、空間は一向に解体されません。そこから逃れることを、読む者に許さないのです。

 これは単純な図式で、「リアリズム・男性」と「非リアリズム・女性」の対比、として想起することが可能だと思います。

 繰り返しますが、河野多恵子は戦時中を十代の多感な少女として過ごしている、と述べました。しかし、たとえば、同じような体験を持つ同世代の大江健三郎などとは、まったく違った独自の〝戦後の視点〟で文学を形成しています。大岡昇平大江健三郎らが、どのような意味合いをそこに含めようとも、「戦後を肯定する文学」であったとするなら、河野多恵子はただただ己の「嗜好」のみを追求したといってよいでしょう。そしてそれは「近代小説」そのものを転覆させるものです。ぼくが河野多恵子の後発者として、金井美恵子江國香織らにも通じるものがある、といったのはそういう意味合いです。

  その書き方として、人間の関係性の構造をひとつの〝空間〟として捉えようとする技は、今述べたような多くの作家と共通しているわけですけれど、その「構造」それ 自体に焦点を当てることにそれほど比重は置かれてはいません。これは晩年になっても変わらない文学的姿勢でした。そこから零れ落ちるもの、それが産み落としたもの、その〝生々しさ〟に、少しの逡巡もなく彼女 の筆は真っ直ぐにそのメスを突き刺していきます。

 河野多恵子の小説が〝内面的〟であり、また〝女性〟であることを強く喚起させるのは、 「戦争」という非日常の空間性から、近代小説の言葉をなぞるようにあまりに自然主義的な方法で日常をとらえながら、本来の意味での〝女性性〟を奪回しよう としたからだ、ということはほぼ間違いないでしょう。彼女はそれまでの女性作家たちとは決定的に異質な存在として登場してきたのです。

  ここに収められた河野多恵子の初期を代表する6つの短編は、作品として見るならやはり「塀の中」が、彼女の文学的姿勢が炸裂し、傑出していると思います。

「塀の中」では、愛と残忍さが同時に兼ね備えられた〝人間というものの本性〟が、「戦争」という非日常の舞台を通して、具体的に追求されています。それは子供に対する母親という最たる〝人間の生々しさ〟が表出する観点において、存分に表されています。

 さらに、その〝個人的な嗜好〟が如実に表され、偏執的に現れているのが、たとえば「幼児狩り」における〝幼児虐待〟や、「劇場」における〝SM〟などなんですが、それは「塀の中」における、見知らぬ子供を育て上げる、という、どちらかといえば善意ともいえる些細な好奇心から枝葉を広げた「悪徳」と共通する意識であるところが特質であり、またさらに逆にその観点から〝幼児虐待〟や〝SM〟という偏執的嗜好を見ていくと、作品はべつの風景を読者の目に映していくと思います。短篇集を読む面白さとは、本来そのような複眼的解釈の醍醐味にこそあると思うのですけど、これは21世紀に入った今、「短篇集」と銘打たれても、そのような感動はもう現代の文学では失われてしまったように思います。作家もそのように短篇作品を描いてはいません。

 ぼくはやはり河野多恵子の文学には「戦争」が大きく影響しているのじゃないかと思えてなりません。それを徹底的に封殺するためのものとして、残忍なまでの〝個人の嗜好〟が、優先されていったのじゃないか、そして戦争がなし崩しにしていったように、「戦前」を象徴する意味合いの「自然主義小説」自体を解体するに至った、と推測するわけです。

 

 谷崎潤一郎との関連性

 それで先述した河野多恵子谷崎潤一郎の作品との兼ね合いについてです、谷崎潤一郎もまた当時文壇で主流だった「自然主義小説」に大きな反発をして小説を書いた作家でした。この点は両者とも似ています。いったように、河野多恵子自身が、あらゆる場所で、自分は谷崎の大きな影響下で自分の小説を書いてきた、と公言し てはばからないわけですが、谷崎文学が持つある種の「反社会性」は、趣味嗜好の部分より、当時の「自然主義小説」に対する批評性によるもののほうが大きかった、とぼく自身は思っています。谷崎の場合悪魔主義的な背徳性はわりとすぐに消えてしまうんです。

 谷崎文学には、マゾキズムが描かれ、偏執的性質が描かれ、変態性が描かれていますが、谷崎においてはそれらがどこまで本来の気質であったものかは、ぼくは実のところ疑わしいと思っています。でも、これは谷崎のそれらをモチーフにした作品を貶める要因になるとは少しも考えてはなくて、たとえば漱石が三角関係を執拗に追及した作品を書いたからといって、漱石自身が実際そういう経験がどうだったのか、ということはどうでもいいことと同じであって、まさしくそのように作品を読んでしまうことが、谷崎が嫌悪していた「自然主義」的な罠に陥る意識だったんじゃないか、と思えてならないわけです。そしてぼくは河野多恵子という作家が谷崎から学んだものも、そのような〝マゾキズム性〟等ではなく――実際河野多恵子の小説はマゾキズムというよりサディズムです――、この目の前にある「現実」を転覆させる方法意識だったと思います。

「幼児狩り」の主人公の中年女性は、幼児が凄惨な様子で親に虐待されるところを繰り返し夢想します。それと同時に、他人の親の子に洋服を仕立てたりするよう な、一見矛盾した過剰な親切な行為にも出ます。

 それはただ好きだから、そうしているに過ぎない、わけですが、そこに何か確固とした理由があるわけでもなんでもない。このような中年女性が示す矛盾した「嫌悪」、または「快楽」は、それが単なる彼女の趣味志向に過ぎない、という性質をただ明かなものにするだけです。

 人間の持つ「歪な心理」を掘り下げることにこそ確かな現実が掌握される、それが文学の真髄のひとつだとぼくは常に思っていますが、それを誰より実践したのが谷崎潤一郎であり、そして河野多恵子だった、と彼女の小説を読むととてもよくわかると思います。

 描かれる女性たちは、たいてい自己の欲望に極めて忠実です。サディズムに満ち、凄惨で、生臭いです。けれど もそれは「私怨」とは違います。己のフィルターを通して、それを越えて世界の闇の部分をはっきりと捉えます。

  人間は、社会からの抑圧によって、あらゆる欲望というものをコントロールされて生きています。たとえば、有名になりたいとか、美人になりたいとか、いい学校に入りたいとか。それらは本当 に自分が望むものではありません。すべては社会に仕掛けられた巧妙な技です。人間はその罠に陥ったまま死んでいくのです。そしてそのような至るところに人間の欲望の網目を張り巡らされた社会構造の中だからこそ、「本当の自らの欲望」に忠実であるということが、反社会的にならざるをえないわけであり、それを実践すると、豊かな文学をもたらしていくわけです。文学とは「個」を描くことです。他人にとってみれば理解不能な、ある意味では、目を背けずにはいられないような個人的な趣向のところに、それはたいがいあるものです。

  それにしてもただ西瓜を食べるだけのシーンが、これだけ生々しく、陰惨な雰囲気を醸しだす例は、他にありません。ものを食べる、という、その余りに 「日常」的な振る舞いが、不気味な存在感を放ってくるのは、これは多くの優れた女性作家が得意とするところで、ぼくは河野多恵子がやはりその走りだと思います。

 本能や感情の命じるままの心理、外見的には反社会的なものに映る行為だとしても、その倒錯の中にこそ人間の隠された本性が克明に浮かび上がるという文学性。河野多恵子の手によって描かれた陰惨な世界に参入していくのは、恐ろしいながら、同時に甘美な体験であるのは間違いありません。