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ライ麦畑でつかまえて J.D.サリンジャー

 

 戦後のアメリカ文学を代表する偉大な作品のひとつ。文学に詳しくない方でも、タイトルだけは耳にしたことがあるんじゃないでしょうか?

 2003年には村上春樹によって『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルで新訳も出ました。未読の方には、個人的には旧訳の野崎孝訳をお勧めしたいですが、なぜなら「作家」ではない、特殊的人物のフィルターを通していない翻訳のほうがよい、とあくまで個人的にですが、判断するからです。主人公ホールデンのキャラクター造形が、二冊ではやや異質なのです。

 それで、サリンジャーの作品についてレビューするには、まず語らねばならないことがあります。

 

 謎の多い作家、J.D.サリンジャー

 1919年ニューヨーク生まれのサリンジャーは、その経歴、人生後半の隠遁生活にしろ、謎の多い人物として知られています。たとえば、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の最後にはこんな文章が、村上春樹自身によって書かれてあります。

 

 本書には訳者の解説が加えられる予定でしたが、原著者の要請により、また契約の条項に基づき、それが不可能になりました。残念ですが、ご理解いただければ幸甚です。訳者。  (『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 J.D.サリンジャー 村上春樹訳)

 

 プロフィールを訊ねられても、安易に応えないサリンジャーの頑ななというより、もはや病的な姿勢は、21世紀へと跨いでも変わらずか、とぼくは唸らされました。亡くなったすぐ後の2016年の春先に、彼を一躍世界的に有名にした『ライ麦畑でつかまえて』(1951)が、実際は10年以上の歳月を要して書かれた、という書の発見がされ記事になりましたが、訳者である村上春樹がどういう意図と興味でサリンジャーを訳したかを知りたかった人も多かったはずでしょう。実は、というか、ゆえに『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(2003・文春新書)として、村上春樹は一冊の本まるまるサリンジャーの翻訳のことについて語っていますが。

 唯一の短篇集である『ナイン・ストーリーズ』(1953)では、訳者である野崎孝氏は、その相手をはぐらかしつづけるサリンジャーの頑固たる非妥協性について、彼の言葉を引用して、こんなふうに書いておられます。

 

 どうしても略歴が必要だから、と要請してきた編集部に対して、返答したサリンジャーは、「ぼくなら執筆者の経歴などを載せる欄は絶対に設けない」などと偏屈な答弁をしたのちに、「僕はこれまでにも二、三の雑誌に略歴を書いたことがあるにはありますけれど、果たして正直なことを書いたかどうか、保証の限りではありません」と最後を結んでいます。  (『ナイン・ストーリーズ野崎孝・解説)

 

 サリンジャーの文学を解するにあたって、今回は『ライ麦畑でつかまえて』をとりあげます。彼を一躍世界的に有名にした処女長編です。結局この作品が彼の最も優れた作品であると、僕は納得せざるを得ないからです。そして実はもう一冊重要な作品があります。『フラニーとゾーイー』(1961)です。彼の執筆作品数は少なく、訳本もわずかな ので、全作品読んでもらいたいのですが、『ライ麦畑でつかまえて』ではっきりとらえられた「狂気」が、『フラニーとゾーイー』 ――これは「フラニー」と題する一篇の短編と「ゾーイー」と題する一篇の中篇とでできています――で、その堂々巡りの果て、作品に倣っていえば文字通り巡礼の旅の果て、ひとつの啓示を与えられる作品となっているのです。

 端的にいうと、彼の文学的業績に関しては、大きく三つに分けられると思います。

 まず一つは『ナイン・ストーリーズ』(1953)です。これは彼自身が選択した代表的作品を集めた短篇集ですが、『ライ麦畑でつかまえて』の成功の翌年に出版されています。彼は1940年に「若者たち」という短編が雑誌に掲載されデビューしていますが、その後陸軍学校を卒業、兵役中、その後も短篇作品を書きつづけ、それが彼の文学の大きな下支え-――実際そこで描かれた人物たちが、後のサリンジャーの中短篇作品の主人公に発展する――となっていき、これが“グラース・サーガ”物語で、これが彼の文学的業績として重要な二つ目です。そして三つ目が、当然のごとく『ライ麦畑でつかまえて』です。

 サリンジャーは生涯で29篇の短篇をものにしていますが、残りは雑誌掲載に留まり、書籍化を拒んでいます。

 ただ、選集において、『ライ麦畑でつかまえて』の原型作品となった「気ちがいのぼく」という短編作品を読むことは可能ですし、他の著書でもいくつかの『ナイン・ストーリーズ』に収められなかった作品を読むことが可能です。短編もすごくよいです。彼がどのような意図で短篇小説集を編んだのかは謎ですが、どれも巧妙な筆致と構成の技がしかけられたみごとな短編です。『ナイン・ストーリーズ』に収められた「テディ」という作品などは、先ほどいった“グラース・サーガ”と呼ばれる「グラース一家」のシーモアを主人公にした物語群の契機となる短篇作品だと考えられ――執筆、発表は遅い時期になりますが『シーモア ―序章―』(1959)――、彼に徹底的に影響を及ぼしたであろう、東洋的思想もここでは語られています。

 結論からいうと、ぼくから見るに、サリンジャーは、まず自身がユダヤ人であったこと、そして戦争体験で相当な精神的ダメージを負ったこと、がその作家の内実の作品形成に多大な影響を及ぼしていることが重要だと思います。後に彼は繰り返すように東洋思想、神秘主義的なものの影響を強くし、宗教色を色濃くしますが、その文学性が決して“変化”したとはいえません。

ライ麦畑』を読んだけど、よくわからない、という方にこそ、このレビューは読んでもらいたいです。先に書いた彼の民族性、戦争体験等を今一度想起してもらって、この作品が持つ「絶対的な孤独という自我、その美しさ」についてもう一度考え、再読後、その感動が胸に迫ってくることを願わずにはいられません。

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

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フラニーとゾーイー (新潮文庫)

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ライ麦畑でつかまえ』のストーリー

 主人公は17歳のホールデン・コールフィールドという少年です。彼はニューヨークの有名高校の寮生活に入って生活を送っているわけですが、放校処分となります。理由は自ら志願したからです。作品はそのホールデンが寮生活の同部屋であるふたりの学友たちとちょっとした小競り合いをし、その後はっきりと退学届を申し出た先生の元へ行き、ニューヨークのクリスマスの夜の街を彷徨う三日間が、時系列的に描かれている内容です。

 ここで留意しなければならない点がひとつあります。いささかネタバレになってしまいますが、この小説は西部の、たぶん精神病院であるだろうそこで療養中のホールデンが語っている、という回想形式になっているということです。小説の出だしが、とにかく鮮烈なのです。

 

 もし君が、この話をほんとに聞きたいんならばだな、まず、僕がどこで生まれたとか、僕のチャチな幼年時代がどんな具合だったとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたか、とかなんとか、そんな《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんない話から聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。 (『ライ麦畑でつかまえて』 J.D.サリンジャー/野崎孝訳)

 

 インタビュー嫌いなサリンジャーそのものですが笑、この一節でどう反応するか、で、この小説に読者が参入できるかどうか、がほぼ決まるといってよいと思われるような挑発的文章を、ここでサリンジャーは描いています。そういう意味では、ぶっきらぼうな口調で語られたこの一見反抗的に見える小説は、他のサリンジャーの短編集とよく似て、とても隅から隅まで細やかな仕掛けが施された、精緻な小説形式を整えているのです。

『デーヴィッド・カパーフィールド』(1849-50)はもちろんイギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの有名な自叙伝的小説ですが、サリンジャーはここで19世紀的小説を破壊しにかかっている、ともいっていいわけですけれども、フローベールからカフカへと繋がる20世紀モダニズム小説の方法意識とはまったく違った、新しい文学作法がここには表されているともいっていいでしょう。本当のことなんて語るつもりなんてない、と彼はここで宣言しているのです。

 作品の3/4ほどは、いささか退屈なストーリーかもしれません。ホールデンは年齢を偽って酒を飲んだり、娼婦をホテルに呼びこんだり、サリーという女性とデートしたり、友人と会ったり、といろいろするのですが、彼は誰とも心を通えあわせず、自分が無力だということを痛感するに至るだけです。そして重要なのは、この作品の最後の部分です。

  妹であるフィービーとのやりとりと、恩師である人との会話のシーンが、この小説の締めくくりとして描かれるのですが、この投げやりで、やけくそで、反抗的であるにも関わらず、ひどく繊細でとても優しいホールデンという少年が抱え持っている「絶対的な孤独」がみごとに対象化されているのが、ここにきてやっと読者の腑に落ちることと思います。『ライ麦畑でつかまえて』に描かれたものとは、つまるところ文学的に、実存主義的存在、といっていいと思いますけど、これほど直接的に人間の「存在性」を作品化した文学は類例がない、といってよいです。

 有名な一節があります。ホールデンはニューヨークをぶらぶらした後、高校を退学したあとは、どこか遠くの牧場にでも行こうと思うのですが、所持金も足りなくなっていましたし、なにより一目大好きな妹のフィービーに会いたい、と家にこっそり一度帰ります。でも、フィービーと口論になってしまい、そのときフィービーにいわば追いつめられるように、こういわれます。「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」と。それでホールデンは、ぼくにも好きなものだってある、といい、それをフィービーにこう語って聞かせるのです。

 

「君、あの歌知ってるだろう『ライ麦畑でつかまえて』っていうの、僕のなりたい――」

「それは『ライ麦畑で会うならば』っていうのよ!」とフィービーが言った。「あれは詩なのよ。ロバート・バーンズの」

「それは知ってるさ、ロバート・バーンズの詩だということは」

 それにしても、彼女の言う通りであることはそうなんだ。「ライ麦畑で会うならば」が本当なんだ。ところが僕は、そのときはまだ知らなかったんだよ。

「僕はまた『つかまえて』だと思ってた」と僕は言った。「とにかくね、僕にはね、広いライ麦畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖にどこを通ってるかなんて見やしないだろう、そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ、一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、僕がほんとになりたいものといったら、それしかないね、馬鹿げてることは知ってるけどさ」  (『ライ麦畑でつかまえて』 J.D.サリンジャー/野崎孝訳)

 

  そのすぐ前にも重要な場面が実はあって、ホールデン、フィービー、さらにD.Bという兄も彼ら家族にはいるのですが、彼らの兄弟にはもうひとりアリーという幼いときに死んだ兄弟がもうひとりいたのです。ホールデンは、死んだからって、好きであってもいいじゃないか、といい、フィービーは、兄がいっていることは、ぜんぶ実際のものじゃない、と反論します。

 誰よりもフィービーを愛しているというホールデンのことを、フィービーはいくらかはわかっているのは、確かです。ホールデンもまた同じです。実際、ひとりで旅立とうとするホールデンのもとに突然フィービーが旅行鞄を持って、いっしょに行く、と後に現れるのです。しかし、この2人の関係は、とてもせつないもので、これはフィービーがまだ幼いからホールデンの悲しみや孤独がわからない、というのじゃなく、家族であっても、溢れんばかりの愛情が互いにあっても、「わかり合うことができない」ということが、この世にはあるということを説明しています。この小説を「絶対的な孤独」にしているのはそのことです。

 この「関係性」は恩師であるアントリーニ先生との最後の場面でも同じように出てきます。先生はホールデンに対し、「僕には、君が、きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で、高貴な死に方をしようとしていることが、はっきりと見えるんだよ」とホールデンを心配していいます。

 

「君がいま、堕落の淵に向かって進んでいると思うと僕は言ったが、この堕落は特殊な堕落、恐ろしい堕落だと思うんだ、堕ちて行く人間には、さわってわかるような、あるいはぶつかって音が聞こえるような、底というものがない。その人間は、ただ、どこまでも堕ちて行くだけだ。世の中には、人生のある時期に、自分の置かれている環境がとうてい与えることのできないものを、捜しもとめようとした人々がいるが、今の君もそれなんだな、そういう連中は、また、自分の置かれている環境では、捜しているものはとうてい手に入らないと思ってしまう。そこで捜し求めることをあきらめちゃった。実際に捜しにかかりもしないであきらめちまったんだ。わかるかい、僕の言うこと?」  (『ライ麦畑でつかまえて』 J.D.サリンジャー/野崎孝訳)

 

「とにかく学校にもまだ学ぶべきことはある、学校に戻りなさい」という先生は、さらに精神分析学者の言葉を引用してホールデンにこうもいいます。

 

「『未成熟な人間の特徴は、ことにあたって高貴な詩を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、ことにあたって卑屈な生を選ぼうとする点にある』」  (『ライ麦畑でつかまえて』 J.D.サリンジャー/野崎孝訳)

 

 この「現実」と“非現実性”の対称性は、例えば日本の小説でいえば、夏目漱石が描いたような、誰にも理解されない場合に人は、死するか、発狂するか、宗教に入るかするかしかない、といったことと似ています。実際サリンジャーは小説の題材を宗教と狂気と自殺に求めました。サリンジャーがこの小説にこめたものとは、ホールデンという主人公の孤独というより、小説そのものの孤独、この世界の孤独さ、というものにほかなりません。しかし、この小説が今なお世界中の人に愛されつづけているのは、それ以上の純粋さと美しさを、この作品が内に秘めているからです。

 

ライ麦畑でつかまえての』の文学性について

 これまで多くの論者によって、この半世紀以上にも渡って絶大な読者を得つづけている作品は、多方面にわたって論じられてきました。この作品は精神分析学の対象本にもなっているようですが、ぼくがいいたい要点はひとつだけです。

 ぼくがこの作品の読解に対して懸念するポイントがひとつあるのですが、この小説があくまで未成熟な若者の青春小説である、と付与される性格についてです。これは、そのような年齢や時代と共に色褪せてしまう一面的な小説ではない、ということです。

 この小説は確かに17歳の少年を主人公にして、学校や周囲の大人に反抗する態度を描いています。実際に当時の1950年代の若者たちの不良言葉を小説に持ち込んで、作品は一人称の告白体で書かれています。そのような反抗期の青春小説として読むことも可能でしょう。事実サリンジャーは高校を一年で退学しています。これは自伝小説であることにも疑いなく、自分の過去を振り返りながら、それを確かにディケンズ風にピカレスク・ロマンとして描いたものだといってもよいのです。

 誰しも思春期に、悩みを抱え、孤独な境地に陥り、ともすれば、社会の規範から外れてしまうことも実際にあります。しかし、この『ライ麦畑でつかまえて』に描かれた「絶対的な孤独」は、大人になれば解消され、忘れ去って癒えていく類のものではなく、他のサリンジャーの作品を読めば明確なのですが、この書物の中でもアントリーニ先生とのやりとりでそれははっきりしているように、このホールデン少年はすでに「この人生の出発前」に世のすべてをわかってしまっているのです。

 こういうと、なんだか胡散臭い気もするのですが、『フラニーとゾーイー』を読んでもらえたら、彼らが子供の頃から大変な早熟で、一家がある種の“狂気”に浸されている説明によって、ことの次第がわかるでしょう。これこそが、この作品の「絶対的孤独」であり、小説の孤独、なのです。

 たとえばサリンジャーは「ぼくの作品はほとんど若い人たちのことを書いています」といっているようですが、訳者の野崎孝さんが『ナイン・ストーリーズ』の解説で書いておられるように、それは言葉通り若い人のことを書いている、ということを意味してはおらず、それはある種の「比喩」であって、いうならば「宿命」を背負い続けなければならない人たちのこと、さらにいい変えれば、若いままでしかいられない人たちのことを描いているのだといってよいです。サリンジャーはユダヤ人であり、高校を退学して陸軍学校に入隊し、実際にノルマンディー作戦に立ち会って兵士として戦地に赴いた、その背景を持ちながら、人間が持つ「宿命」というものを、最も多感な時期に感知する「思春期」という季節に焦点をあてて、それを当時の1950年代のアメリカの持つ時代性と呼応させて、『ライ麦畑でつかまえて』において結晶化しました。

 この「若い人たちのことを書いている」という作家自身の発言を鑑みるに、たとえば「ゾーイー」において興味深い描写があったりします。彼らグラース家の子供たちが小さな頃によく遊んでいたとして用いていた部屋が登場するのですが、――繰り返すように、彼らは皆がそれぞれに「神童」だった、と作品には描かれていますが――、落書きとして、そこにはトルストイから小林一茶までの著書からの引用が書き連ねられた跡があると、記されています。彼が「若い人」という場合、それは狂気に憑かれた人であると同時に、制御された大人には理解されない人、という意味合いで用いていることは明らかです。さらに彼はそれを「キリスト教」解釈までをも持ちこんで、イエスもまた若い人である、といっているのです。

ライ麦畑でつかまえて』については、戦場から戻ったサリンジャーが最初に手掛けた処女長編だということをなにより想起してください。これは自伝的要素がある、と先ほどぼくはいいましたが、大人になった彼が自分の若かりし頃を懐かしく思い出して書いた小説といえるでしょうか?

ナイン・ストーリーズ』の冒頭作品である「バナナフィッシュにうってつけの日」では、戦場の傷の癒えない主人公の自殺を、極めて日常的な光景の中に衝撃的、突発的に描いていますが、(実はこの自殺する男は、サリンジャーが後に連綿と書き続けることになる「グラース一家」の長男なのです。)サリンジャーの描く人物たちの病は日常に溶けこみ、はっきりとは輪郭を持っていません。『ライ麦畑でつかまえて』が十代の反抗的な小説などと呼べないのは、なによりこれらの理由のない死、に象徴的に表れており、『ライ麦畑でつかまえて』のこのホールデン少年というのもまた、人物としてなにひとつ「主張」を持っていないことを注視すべきです。彼はなにをしてもとにかく無力なのです。彼は確かに自ら放校処分になる態度をとるのですが、これは「なし崩し的な自死」ともいえて、彼が行うことは一見そう見えながら、まったく反抗ではなく、やはりここが最も重要なところなのですが、すべてをもう諦めているのです。彼は誰もが素通りしていくものを看過できない繊細な感受性を持ち得ています。それをどうにかする術を自分がなにも持っていない、ということがわかってしまっていて、それを誰とも共有できないのです。

 もう一度冒頭の引用した部分を思いだして欲しいです。

 サリンジャーはこの本で、実は自分のことなど本当はなにも語ってなどいないと解釈してもよいと思います。語るつもりもないし、語ることは不可能だ、と初っ端にいっているわけです。そして『ライ麦畑でつかまえて』というこの著作が、これだけ多くの読者に支持をされるのは、なにより作者によってこの本にこめられた、ぼくが先に述べたような、純粋さと美しさがあるためです。

 主人公ホールデンは反抗しようと確かにします。でも、彼はただ純粋なものに真っ直ぐに目を注視しているから、そうなっているのが、読み進むにつれ読者にわかってくるはずです。

 やがてサリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の成功の後、その己のテーマである「絶対的な孤独」を仏教的価値観、東洋思想などに見いだして、それを“グラース・サーガ”として書いていくのですが、どこにも行き場所などなかったホールデン、あるいはサリンジャーは、はっきりとその苦悩に解答を与えています。ひとつの解答が、先ほど書きましたように「ゾーイー」という中編に書かれてあります。それはイエスについての解釈です。その後、彼はだんだん作品を発表しなくなり、家の周囲に壁を張り巡らせて、隠遁生活を送りはじめますが、その「沈黙」は、実は悲観的なものではなく、禅、に似た悟りの境地に彼が行き着いたからかもしれない、と僕は思うのです。

  誰もがこの『ライ麦畑でつかまえ』に共感を持ち得るとは、ぼくは思いません、が、少なくともここに描かれた絶望と美しさを、読んだ読者は一生涯忘れないだろう、と思います。

 このあまりに孤独、絶望と同時に悲しみとせつなさに満ちた小説は、世の中とは同時に、純粋で、美しいものだ、ということを読者に教えてくれています。この小説がとらえて離さない魅力は、まさしくその≪絶対的孤 独の自我≫という苦しみと併せ持つ美しさであって、ホールデンのそれは狂気ともいえますが、きわめて抒情性豊かな側面も持ち合わせています。サリン ジャーが描きたかったのは、まさしく現実と非現実との淡い境界――あるいは深刻な話とホラ話、19世紀の正当的な小説と20世紀後半のモダニズム小説とっ てもいいですが――に現れた一瞬にして垣間見えた、言葉にならないなにか、であり、それは宗派や時代を越えて見いだす光だったとぼくは思えてならないのです。そして彼は苦闘の末、それをとうとう見いだしたのです。