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ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨 山田詠美

 

  山田詠美26歳時のデビュー作。「ベッドタイムアイズ」(1985)は彼女の文芸誌の「文藝賞受賞作」で、当時選考委員のひとりであった文芸評論家の故江 藤淳がすごく賞賛したという話を聞いた覚えがあり、ぼくも読んでみてその作品の高さと個性の豊かさに驚きました。山田詠美の作品はその外見的印象からは違って、作品が古典的風格を持ってい、現代の名作という名に値する作品が多いです。実際にこの作品が賞を落ちていたら、文芸 誌や選考委員の見識が間違いなく問われたでしょう。単に素晴らしい作品だけではなく、良識的な作品なのが、山田文学の特質です。この新潮文庫版は彼女のデビュー作、2作目、3作目が収録されていて、山田詠美の「出発点」を推し量るのには最適です。

 最初はぼくの好きな作品『学問』(2009)をとりあげようか、あるいは、たぶん一番人気作である『ぼくは勉強ができない』(1993)をとりあげようか、と悩んだんですが、山田詠美の小説は傑作が多く、その分破綻・失敗作が多いのも事実で、読者の嗜好も様々なので、いつものごとく、入りやすい作品から、ということで、彼女のデビュー作をレビューすることにしました。前もっていっておきますが、これは彼女の最高傑作のひとつに数えられる作品なので、そういう意味で、ここから読んでいってもまったく支障はないことを、ぼくが保証します。

 

ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨 (新潮文庫)

ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨 (新潮文庫)

 

 

「ベッドタイムアイズ」

「ベッドタイムアイズ」は、基地の近くのバーで働く「キム」と、その恋人である軍の隊員のひとり、黒人である「スプーン」との、濃密な恋愛模様が描かれた話です。もうひとりキムの憧れの女性である年上のダンサー「マリア」も登場するのですが、この小説はたったそれだけの人物しか登場してきません。ストーリーらしきものもほとんどありません。確か山田詠美自身の発言で覚えているんですが、400字詰め原稿用紙101枚だったはずで、短篇作品といってもいいような分量です。
 最初に彼女の小説はとても良識的な作品だとぼくは述べました。内容だけを見てみると、黒人兵とのスキャンダラスな性交場面が描かれたこの小説のどこが良識的なんだ、と首を傾げる人がいるかもしれません。しかし、それは逆説的であって、この山田詠美自身の自伝風の題材を用いた作品は、そのスキャンダラスな性格を持っているにもかかわらず良識的としか呼びえない側面が描かれてあることが重要なのです。なによりもまず文章を見て欲しいです。山田詠美とはとにかく現代作家における名文家のひとりなのは間違いないのです。

 

 スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい。ただし、それは私の体を、であって、心では決して、ない。私もスプーンに抱かれる事は出来るのに抱いてあげる事が出来ない。何度も試みたにもかかわらず。他の人は、どのようにして、この隙間を埋めているのか私は知りたかった。マリア姉さんに聞いても具体的には教えてくれない。いっそこうしろと誰かに命令された方がよかった。意志を持たない操り人形が示された処方箋を読むように私はスプーンの痛むとこを舐めまわしたい。それが彼のディックを舐めまわすより、はるかに困難だという事に気づくまでに時間がかかり過ぎた。何故、もっと早くから練習しておかなかったのか、と思う。   (「ベッドタイムアイズ」  山田詠美) 

 
 ここで現れた全ての言葉の「官能性」は、おおげさな意味じゃなく、文学史に刻まれるべき古典性を持つべきものです。書かれてある内容がどうであれ、この文章力だけで山田詠美という作家は、現代の一級の小説家なのは明白です。これほど感嘆させられる言葉を操る現代の作家は、ぼくは現代の作家では古井由吉くらいしか思いあたりません。
 この新潮文庫の解説は評論家の浅田彰氏なのですが、山田詠美を「モラリストの作家」といっています。これは全く正しいとぼくも思っていて、彼女ほど真っ当な小説家というものは存在しません。黒人兵と日本人女性との情事。このような一見スキャンダラスな題材が、もしも装飾を散りばめた卑猥な言葉で綴られていたとしたなら、この小説は台無しだったでしょう。自分が全身全霊を込めて、「好きだ」「大切だ」と思えるものを、絶対的な言葉の清さとして提出することが、作家である山田詠美の心情であり、この作品に表される言葉ひとつひとつが、そういうふうに一見古風じみて的確で上品であるからこそ、読者はこのふたりの常軌を逸した熱愛に、見惚れるのです。その作家の描く五感を全開にした体温感覚に、まさに溺れるように共鳴していくわけです。
 この感性は山田詠美全作品に通じる意識で、「倫理」と呼んで差し支えないものだとぼくは思っています。この「倫理性」は詠美作品全編を貫いており、それが「文章」にまで洗練されて現れているのが山田詠美の文学です。

 

「指の戯れ」

「指の戯れ」(1986)は「ベッドタイムアイズ」の次に発表された作品ですが、やはり作家の五感性を通して、男女における、その支配―非支配という通俗的関係の中に突き詰められ交感を読みとろうとした、美しい恋愛小説です。ここで表されるのも、やはり徹底した〝こころ〟ではない〝体〟での、コミュニケーションですが、だからこそその恋愛の本質は、凡庸な恋愛小説とは異質な風に浮き彫りにされていき、男女の〝こころ〟という移り変わるものが、絶対的であるべき体温で容易く逆転していく様が描かれていきます。

 

 ブリキの蓋の付いた砂糖壺を濃いコーヒーの上で振った時、最後の一振りであまりにも沢山の砂糖が出すぎてしまった時のはにかんだ笑顔や、文字のはげかけたムスクオイルの瓶など、私の心の中でいとおしまれていた物たちが何の意味も持たなくなる時、既に新しい愛は始まっている。そしてそれと同時に私の喉を通過するのは、ある特定の人物の精液と煙草のけむり、そしてリカーだけになる。
 それは一見とても思い病だが、大人になると、ミルクと半々になったフランス式のコーヒーのような苦くて乳臭いものとして忘れ去る技術を身に付けることが出来る。
 自分の技術を過信したために起こった私の失敗は人にただの色恋沙汰(ラブアフェア)として語られるだけで終わるだろう。わたしは心からそうあって欲しいと思っている。私の中でそれが極めて重大な意味を持っていたと他の人に知られるくらいなら舌を噛み切って方がいい。なぜなら記憶が何の価値も持たないくらい小さく思え、昔習得した連来の手管(トリック)など、何の意味もないと私に改めて確信させたのは、彼が欲しいという、ただそれだけの気持だった。私はただ彼が欲しかったのだから。  (「指の戯れ」  山田詠美)


 山田詠美はときどき、ひどく通俗的なメロドラマ風の設定を用いることがありますが、この作品はその手のわかりやすい心理ドラマであるといってよく、たぶん読者も喜ぶだろうし、編集者も歓迎しそう、というか、だからぼくはあまり感心して読まなかったんですけど笑。やはりそれくらい「ベッドタイムアイズ」が強烈過ぎましたからね。山田詠美という人は、「物語」を導入すると、なにかどうも何らかの説話でその〝五感性〟を表現しようと、作り物めいてしまうというか、説教臭くなってしまう感じがどこかにあるるのは否めません。その感動が半減させられるものがあるというか。彼女の場合、「物語」によって、その〝五感性〟を表現しようとするのではなく、「物語」を逸脱する方向性で、それを引き延ばして行くほうが、小説の熱があがっていくような気が、少なくともぼくはしています。
 このような男女の逆転劇なら、先行者河野多恵子のような作家がずば抜けているわけです。ただその語り口にそつないがことは、やはりいっておかなければならないことでしょう。文章は格段に優れています。

 

ジェシーの背骨」

ジェシーの背骨」(1986)は、作家の資質が自身の手によって具体的に明かにされている、といった感じがあって、これは山田詠美の作品中、ある意味とても興味深い小説だとぼくは思っています。山田詠美という作家は、全て自分の体内に入ったものしか描かないですし、描こうとしません。自分の心で感知したものしか反応をしませんん。無駄な言葉、描写、何処からか引用してきた形容や、借り物の言葉使いというものが一切小説内には見当たらない。自分が感じ、自分が傷ついた言葉でしか、小説を語らないのです。
 ぼくは彼女の作品を読んでいていつも思うのですが、彼女は確かに極めて「倫理的な作家」です。言葉の全てが熱を放っている理由は、山田詠美という〝体温感〟からしか発しないものであるからであって、「日常」から、遠く離れたところから、生み出されたものであることは間違いないもの、それはたいていセックスと結びつき、個人的な嗜好と密接に繋がっていきます。
ジェシーの背骨」で登場される「子供」という日常的な存在は、ここではその主人公の存在そのものを、大きく戸惑わせるものとなっていきますが、この作品は、前作の「指の戯れ」よりも、家庭を舞台にしているせいか、少し地味な印象を与えますけれど、前作より断然優れているのは間違いないです。作者は、己の資質を、日常の具体的なフィルター、それも家族という決して逃れられない宿命の関係性を土台にすることで、痛々しくその〝体温感〟を見極めようとしているのがわかります。

 

「彼女、可愛いとは言えないね。まあまあ(ソウソウ)ってとこじゃない?」
 これが、これから数カ月に亘ってココを悩ませることになる十一歳の悪魔の彼女に対する最初の言葉である。ココはいり卵をつつく悪魔の顔を嫌な予感に包まれながらながめていた。
 リックはすっかり御機嫌である。朝からグラスにジンを注ぎ、はしゃいでいる。ココは昨夜の狂乱のため、酒を見ただけで吐き気をもよおし、大きな水差しを目の前に置いて氷水を飲み続けた。
「彼女の顔、見てみろよ。愛らしいなあ。キスせずにゃあいられねえよ。体(ボディー)はとびきりセクシーな爆弾で、抱きしめずにはいられねえ」
 リックはそう言ってココに口づける。酒の臭いが彼女の喉を刺激し、彼女はやっとの想いで吐き気を飲み込んだ。
 そして、その悪魔、ジェシーはさも軽蔑したように父親を見て、音をたててフォークを置いた。つけ合わせた生野菜には一切口をつけていない。ジェシーは立ち上った。
「覚えていてね。僕はオクラ以外の野菜を憎んでいるんだ」
ココが返事を忘れて唖然としていると、彼はジャケットを手にし、出かける準備をした。
「ダディ、昼食(ランチ)はアレックスの家で食べるから心配しないでね。楽しんでよ」
   (「ジェシーの背骨」  山田詠美)

 

 ここに登場する主人公は、両親の不幸を一身に背負った11歳の「ジェシー」という男の子なのですが、彼はどうみても、ある種作者山田詠美の分身としか呼べません。そしてその血の繋がらない母親「ココ」もまた彼女の分身であるといってよいです。今日常の腐臭を払いのけるまでに成長したココは、しかし、未だ不幸を身にまとうしかない少年ジェシーの作為によって、この最初に描かれたシーンからすでに激しく衝突させられ、そしてあることで自分の存在性を強く確認させられる事態に陥ります。
 ココの起源は本来ジェシーにあり、そして将来のジェシーはココです。作品に現れる、女、少年、ともに起こる通過儀礼は、どのように人生の不幸というものに言葉を与えていくかという、その作業にこそあり、この小説の意図はそこら辺りにありそうです。「ベッドタイムアイズ」では、その己の煌びやかまでの官能性を大胆に肯定的に語ってみせて作品を描いたわけですけれど、この作品では、それが実は土台に極めて深刻な不幸的刻印を持っていることを露にして、弱々しいトーンで小説の言葉は奏でられています。本来、〝恋愛〟とは、孤独を知ったものだけが行為することのできる「奇跡のコミュニケーション」なのであって、そしてさらにセックスは、その最も具体化された、男女のツールなわけです。この作品を読むと、そういうことが描かれてあることが読み取れると思います。
 どうみても真っ当ですし、これを「倫理性」といわずして、ほかになんていうんだろうって、ぼくは思うんです。

 

 山田詠美の文学性

 僕は実は山田詠美さんという作家を熱心に読んでいる読者とははっきりいっていいいがたいです笑。ただ彼女が登場した80年代以降において、現代文学を語る際に、彼女の存在性を無視することはどうしてもできません。それくらい彼女は特異かつ重要な作家なのです。
 個人的に、女性作家って、これはぼくが男性であることが理由だからかもしれませんけれど、たいてい好きか嫌いかに真っ二つに分かれてしまうんですが、そういう意味では敬服しているのに、それほど多くを読んではいないという意味では、ぼくにとっては山田詠美という作家はずっとなんだか凄く不思議な存在位置にいる人です。これはあくまでぼくの感触ですけど、インタビューなどをいろいろ読んでいる限り、彼女の先輩格にあたる女性作家の人たちは彼女の才能をわかっているように思いますし、愛さずにはいられない性格を持っていることもすごく感じますね。それはぼくはやっぱり彼女の持つ「倫理」と深くかかわっている気がしてならないんです。
 80年代の作品だとやはり鮮烈なデビュー作「ベッドタイムアイズ」、90年代の作品なら、勉強はまったくダメだけれど女の子にだけはモテてモテてしょうがない時田秀美くんが登場する連作『ぼくは勉強ができない』(1993)、00年代の作品なら、性を通した教養小説『学問』(2009)が、たぶん一冊ずつとなると、ぼくは選ぶと思います。ほかにも好きな作品いっぱいありますけど、やはり短篇はとりわけ好きですね。

 山田詠美という作家はもともと漫画家でした。ホステスをしながら、最初の「ベットタイムアイズ」を五年ほどかけて書いたらしいです。彼女が小説を書かなければならなかった理由は、それはもちろん彼女しか知る由はありませんが、ぼくはこう思っています。

 日常の腐臭に塗れたその「言葉」という、何かに意味付けしなければならないものを、どうしても苦々しく思ったからではないか、と思うわけです。彼女は自分が信じる言葉だけによってそれを刻印しようと文章を書きつづっています。それはとても女性的であり、個別的であり、先にいったように倫理的であり、その嗜好性が黒人との情愛やセックスがモチーフとなっていたことから、それが文壇的にもすごく新しい作風に見えたのかもしれませんが、実はとても古風なんです。村上龍のレビューのところでもいいましたけれど、やはり山田詠美もまた外国文学の影響下で小説を学んでデビューしてきた人であることは明らかですが、最初の頃はこれまでの日本の小説に書かれた言葉では、自分の描きたいものは書けない、と思ったことが、強くその心の内にあったんじゃないか、と僕は想像します。
 彼女の作品の表面性に現れる官能性、恋愛、セックスは、繰り返しますが、意外にも「不幸」という、極めて日常的な逃れ難きものと密接に結びついていることも本当に重要なことです。それは、本来奇跡のコミュニケーションであるはずのセックスというのもが、結果的に幸福/不幸のどちらをも招く存在ともなりえる、つまり子供を産み落とす、決定的事態でもある、ということ通じるものでもあって、彼女の小説は、単にファックする官能や破滅を描いているわけではなく、深い洞察へ潜っていく「交感」の小説なのです。
 彼女は自分のフィルターを通した世界しか信じてはいないし、それがどのような場所から引き起こされたものであるのか、そのことにも十分承知しています。絶対的自己の存在を強く肯定するために、エゴを肥大させ、一見仰々しくもなっていく場合もあるわけですが、時に不幸をきっちりと自身で受け止める、という倫理性を強く問うものでもある文学であるのは確かであり、そのとき彼女の小説作品は飛び抜けて輝きを帯び始めます。

 

 倫理的な作家である山田詠美

 余談ですが。この国の全ての風俗嬢、AV女優、ストリッパー、いわゆる水商売等の商売をされている女性は、山田詠美の小説を読むべきです。理由は、その文学は時折激しく狂気じみ、破滅にも向かいますが、そこに一瞬に繋ぎ止められた思いはまさに真実としか呼べないものであって、生きているといえる感覚が、全身の五感を通して小説に表されているのです。黒人兵、麻薬、それらの風俗性、その皮膚感覚的な言葉使いで綴られた一見突飛な作品を、ある種の卑俗性やアウトサイド的な恋愛小説として読むなら、読者は足元を必ず掬われます。作者の人間性に起因するしかない、それ故絶対的なものがそこには潜んでおり、なにより人生を肯定しようとする強い意志と彼女の言葉に対する鋭敏な感覚は、生半可なものじゃありません。
 絶対的に肯定者として提示してしまう彼女の小説が、いいものなのか、悪いものなのか、それは人がそれぞれ判断すればよいことで話はまた別なこととぼくは思いますが、とにかく山田詠美という稀有な小説家が、この偽りに満ちた日常を離れ、官能性を選び、それを正当化するために自分だけの言葉を必要とした作家であることは明白で、そのあまりに弱者に寄り添う抒情性と、そして相対する自己への厳しさは、極めて倫理的な芸術家だけが持つそれであり、彼女が本流の小説を担う、極めて正当な作家であると、ぼくは声を大にしていいたいし、彼女の作品を読んでもらいたいのです。