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流しのしたの骨 江國香織


 江國香織さんの著作の中ではあまり読まれていない本みたいで、意外です。ぼくはこれが彼女の最高傑作だと思っているんです。

 この作品を読んだとき、「新しい文学」がこうしてはじまっていくんだな、とそんな新鮮で胸躍る感覚を発見した気がしました。江國香織という人の小説は明らかにそれまでの「日本の小説」とは異質であり、とにかくそれは新しかった。

 

流しのしたの骨 (新潮文庫)

流しのしたの骨 (新潮文庫)

 

 

『流しのしたの骨』について。

『流しのしたの骨』は江國香織さんの小説で、僕がいちばん好きな作品で、実際彼女の最高のうちのひとつであり、1996年に発表されています。

 調べてみると、彼女のデビューは1987年で、吉本ばななさんなんかとほぼ同期です。とすると、彼女は意外と評価されるまでには、時間がかかっているんだなあ、と思いました。――デビュー長編の『きらきらひかる』(1991)がベストセラーになったせいで、とても華やかな印象があるみたいですけれど、意外と最初は日陰の作家であって、これは村上春樹なんかの存在性とも似通ったものがあると思えます――作家活動をしてから10年目にあたる作品がこの『流しのしたの骨』で、『落下する夕方』(1996)というやはり代表作なる素晴らしい作品も同時期に彼女は書いていますけれど、作家ってだいたい10年くらいすると、ひとつの文学的ピークに達する傾向があるみたいです。

 江國香織という作家の文学的評価が飛躍的に高まったのが、やはりこの辺りなんじゃないでしょうか。

 僕がこの作品が好きなのは、江國作品で最初にこれを読んでしまった、ということも、きっと大きいんでしょうけど、とにかくそれまでになかったものに出会った感覚を持ってしまい、圧倒されてしまったんですね。その後、いつものごとく、素晴らしい作家を見つけると、処女作から順を追って、彼女の作品を読んでいくことになりました。

 江國小説にはたくさん素晴らしいものがあって、『流しのしたの骨』は、それまでのものを統合しながら、なにか新しいものに向かおうする姿勢があると思いました。それだけじゃなく、ここで彼女は明確に「文学的なもの」に衝突していると、僕は思えてならないです。彼女は童話作家出身ですが、フィールドはその枠内に収まりません。この小説は庄野潤三の影響が明らかでしょう。こんな作家がいたのか、と僕は驚嘆したんです。

 

『流しのしたの骨』のストーリー

  普通の、よく見れば、ちょっと変わった性格の家族6人の日常が、淡々と描かれるのが『流しのしたの骨』という作品です。この小説には、他の江國香織作品同様、大きなストーリーは起りません。3女の19歳、いわゆるプー太郎の〝ことこ〟の視線を通して、話はゆっくりとゆっくりと織られていきます。テーマは「家族」「恋愛」です。しかし、いわゆるリアリズム小説とは異質です。
 この小説は本当に事件らしいものが実際なにも起きないわけですが、正しくいえば、それら「日常の断片」のどれも、重大事件、なのです。

 

 私たちの母は、昔からずっと、朝父を送りだすと化粧をし、夕方父が帰ると化粧をおとして出迎えた。父は、帰る前に駅から必ず電話をかけてよこすので、母が化粧をおとすタイミングに腐心する必要はなく、化粧をおとしたあと、母は冬でもつめたい水で顔を洗って化粧水をつけるので、父を出迎えるときの母の顔はいつも頬が赤く、清潔でぴかぴかしているのだった。
 私はそれをとても奇妙だと思っていたが、二人の姉や小さな弟の目には、ごく普通の光景に映っているらしかった。慣れているのだ。かーさんはそういう人だもの。いつだったかしま子ちゃんはそう言った。
 私たちがまだ小さかった頃、母は私たちを連れてよく動物園にいった。朝父を見送ったあとに急に思いたち、私たちに学校を休ませてでかけることもしょっちゅうだった。母は動物園を愛していた。
 動物園にいくのはきまって冬だった。それもうっそりと曇ったおそろしく寒い日で、ときには小雨が降っていさえした。母は黒いスウェードのハーフコートを着て、襟元にあかるいオレンジ色のスカーフをのぞかせていた。動物園はがらがらで、動物たちはみんなどんよりと愚鈍にみえた。 
    (『流しのしたの骨』  江國香織)


 この作品は、文章を見るとわかると思うんですけど、一見軽妙でありながら、深層にはなにかドロドロとした「ぬめり」が匂うんですね。つかみとられる風景。日常の些細なエピソード。なにげない会話。淡々とした話なんですけど、それらひとつとひとつのことが、なにか人生におけるかけがえのなさみたいなものとして潜まれているのです。

 江國香織という人の文章は易しいですが、決して歯切れがいいものとは思えません。これは同じ女性で童話小説出身の梨木香歩さんにもいえて、この不思議な彼女らの言葉のリズムは、女性的な生理的感覚といってしまえばそれまでですが、童話の話法から来ていることも大きいと僕は思っています。――だんだんと江國香織さんの文体は変化していきますが……――この『流しのしたの骨』という作品がほかの童話風な装いを持ったどの江國作品より、もっとも童話の本質に迫ったものを持った小説だとも僕は思っています。


『流しのしたの骨』に見られる特質

 淡々とした日常の断片を拾いあげながら、不気味な暗渠が紡ぎだされていきます。本当に大したことは起りません。彼氏とデートした。家族でごはんを食べ た。夜に散歩に行く。それらディテールが自立していて、作品内に浮き上がってきて、不思議な世界観を醸し出していきます。その「日常のひとこまひとこま」は実は小説内に有機的に繋がるものがあり、作品の奥底にひとつの大きく〝横たわるもの〟があることがわかってきます。それがタイトルに冠された〝流しのしたの骨〟です。

 

「今朝ね」
 ガラス張りのロビーに戻ってきたところで私は言った。
「駅でバスを降りるとき発見しちゃったの」
 何かのむ? と、そばの自動販売機を指さして深町直人が訊き、私は首を振って否定の意志表示をしながら喋り続ける。どうしてそんな話をしているのかわからなかったけれど、なんとなくそれをいま話したい気持ちになったのだ。
「停留所の立て札に、よく何々って書いてあるでしょう? 停留所名とは別にね、その下に小さく何々前ってついでみたいに」
 深町直人は神妙にうなずく。
「駅前のそれにはパチンコミツボシ前って書いてあったの」
 私はここでいったん言葉をきった。パチンコミツボシ前。そうなのだ。確かにそう書いてあった。
「それをずっと読みまちがえていて、ハチミツコボシ前だとばかり思っていたの。何年も、ずっと」
 深町直人は微笑んだ。俺にもあるよ、そういうの、と優しい口調でいった、しばらく黙って、
「今、思いだせないけど」
 と言う。
 今思いだせないけど。
 私はそのセリフがとても気に入った。そう言った深町直人を、とてもいいと思った。   (『流しのしたの骨』  江國香織)


 これは最初あたりに描かれることことボーイフレンドの会話の部分ですが、とても印象的なシーンです。「深町直人とは最近知り合った」という、ぶっきらぼうな書き方にも、とにかく驚かされるわけですが、僕はこの部分に最も面喰いました。これはとにかく妙な会話です。読者は突き放されたような感覚を味わうと思うのです。

 ここでふたりはデートをしているわけです。彼女はここで恋人に質問をしているわけですが、「そういうのよくある」と彼は彼女の意見にうなずきながら、「今は思いだせない」というわけです。これは恋人同士であるはずの相手の《同調意識》、つまるところ《恋愛の意志疎通》を完全に裏切っていますし、小説的にも、そんなオチは不親切きわまりません。

 しかし、一見どうでもいいようなこのようなディテールがリアリティーを持つのは、実はその奥底ですべてが有機的に繋がっていることがしっかり描かれてあるためで、現実的には「共有」されなくてもリアリティーを帯びているのが、こういう場面に丁寧に描かれているといえます。それがこの場面なんかに象徴的に現れているのです。

 わかりあえるから幸福だと描かれる一般的な小説とは、江國香織の小説はまったく対極に位置しています。でも、彼らは恋人同士であり、家族であり、理解しあっているのです。

 ここでは、そのオチになっていない「結末」を、〝とてもいい〟と思う主人公ことことの心境が、とても心に迫ります。読者の意図を超えて、なにやら崇高的なものに近づいていく感覚すら読み手に迫ってきます。「共有」されて「決着」がつく、そんな安堵感とはべつの幸福的なコミュニケーションの感覚が描かれてあるためです。読者はエピソードの内実よりも、話がどこへ進むかという結末よりも、それが醸し出す不思議な世界観のほうに魅了されていきます。彼女の小説を好きかどうかは、ここらあたりに共感できるかできないかにある、と僕は思います。僕は共感した、というより、完全に打ちのめされてしまいました。

 

 コミュニケーションの不全と、人間の自立を描く江國文学

 たとえば江國香織が描く小説世界を通してみて、今述べた、人間が他人と共有できる空間の「相互理解」というものを、少し考えてみます。江國香織が追求している文学的課題は、ここら辺りにあるのは間違いないのです。それが童話であろうと、恋愛小説であろうと、家族小説であろうと。

 大きくいうならば、コミュニケーションというものが成立する背景には、社会的に「信頼」なるものが成立しているのが条件です。具体的にいえば法律や貨幣や道徳や様々なものが、本来は異質な感受性を持つ人間を調和させているといえます。江國香織の描く〝フィクション〟は、それと調和していません。彼女の小説がふわふわしているのはそのためです。はっきりいって、社会から外れているといっていい。しかし、それを反発して強めるものでもありませんし、またそれを破壊しようとするものでもありません。平易な言葉感覚で、淡々とした日常を織り、彼女は自分の好きだと思うことを率先して描いて、そこに自立性を持たせていくのです。なのでときに、意外と残酷で凶暴な世界観を現すこともあります。彼女の小説は完全なフィクションであることが強度なのです。

 さらに江國香織の描く小説には、痛みを持つ人間が多く登場しますが、なぜ彼らが痛みを抱えるかというと、彼らが先に述べた他人との相互理解ができないからです。しかし彼らは安易な調和でコミュニケーションをはかろうとはしません。他人同志が、互いにその共有できない部分を認め合い、それでも繋がって生きることに必死になろうとする姿勢を見せます。その世界は僕たちにもうひとつの人間の関係性のあり方を提示してくれるものだといえます。大事なのは、それがある種の「不気味さ」=「世界の混沌」によってのみ繋がっているということです。

 物語を決して大々的に構築せず、細部への視点を独立して語るこのような江國香織の文学は、社会的に生存する男性性を徹底的に排除していることは、自ずと明白です。江國香織の読者とは、ほとんど女性だろうと僕は勝手に想像していますけれど笑、このようなある種社会的調和を欠如させた感性は、とにかく男性にはないものであって、僕は江國香織のこういうディテールを積み重ねてリアリティーを紡ぎだしていく世界にどんどん魅了されていって、彼女の作品にどっぷりはまっていくことになりました。同時に女性の持つリアリティーも深く発見していったように思います。
 女性は意外と自立心が強い人が多いのです。包容力もあり、多様性を認められる性格も持っています。江國香織の描く作品は、それをきわめてきめ細かく強烈なイメージで描いていると思うのです。


 江國香織的小説世界

 この作品で僕が好きな場面を、もうひとつあげます。
 主人公ことこが左手で不器用にご飯を食べようとするエピソードが、それです。彼女がなぜそうするかというと、そうすれば食事中も好きな人と並んで手を握っていられるからです。もちろんそれも話としてはほとんど進展せす、そこだけ語られる小さな日常のひとこまとして描かれるだけのたわいのないものなのですが、このほのぼのとした感覚の中に、痛ましく美しい感情を抱くのは、たぶんぼくだけじゃないはずです。

 

 むずかしいのは、左手でフォークを使うことそれ自体ではなかった。そんなのは、練習を始めて一か月もすればすいすいできるようになる。問題は右手なのだ。右手で軽くお皿の縁に触れ、全体のバランスをとることさえできれば物事は素晴らしく上手くいく。
「いまいましいお皿。足でおさえたくなっちゃうわ」
 右手を馬具模様のスカーフで吊ったまま、私はごく小さな声で言った。隣にすわっている律にだけ聞こえるように。つけあわせのグリンピースが、どうしても上手くすくえないのだ。私は英語が不得意だったけれど、もし英語が喋れれば、こういうときになにかそれらしい四文字言葉をぴしゃりと吐き捨てるのに、と、残念に思った。律は私を横目でちらりと見たが、申し訳程度に困った顔をしてみせただけで、すぐに自分の食事に戻ってしまう。私は心の中で舌打ちをした。なぐさめてほしかったのだ。

(『流しのしたの骨』  江國香織)

 

 彼女がいかに人間の関係性というものに対して絶望と渇望を覚え、繊細な感受性を宿しているかが、とてもよくわかるエピソードのひとつだと思えます。
 ほかにも、クリスマスイヴに家族揃ってギョーザを作るという異様な風景。この家族、それら恋人との状況は、そのすべてに細かな心理的説明はないんですけれど、利き腕じゃないほうで食事をするエピソードがそうであるように、とにかく読者の内側に、その淡々とした平易の文章から、人生の深いぬかるみが横たわってくるなにかを、を感じさせてやまないわけです。

 

 江國香織のそのほかの作品

 僕は『きらきらひかる』『落下する夕方』『神様のボート』(1999)も好きですが、ほとんどの彼女の作品が好きで、ずっと彼女の作品を読んでいますし、ほとんど信者です笑 でも、やっぱりいちばんは『流しのしたの骨』です。

『流しのしたの骨』というこのディテールの集積で描かれた長編小説は、描かれているすべてが無駄といえば無駄なんです。でも、その無駄が主題なんであって、ストーリーと関わってこないからこそ重みがあるというふうになっていることが、とても重要なことだと思います。
 6人の家族模様という設定がそれぞれの独立した心境を描きだして、この作品は江國香織ワールド全開です。方法意識もイメージも文学的沸点に達しているんじゃないかなと思えますが、なぜあまり読まれていないのか……??。 綿矢りささんは、好きな作品だ、といってましたよ笑

               ※               ※

 人物のコミュニケーションの不全を、このように一見さらりと描ききってしまう、淡いパステル調の江國香織の小説世界は、個人的な嗜好によるその局所的な視点によって掴みとられて、強烈な痛みを伴ったリアリティーを与えていきます、ディテールに現れる〝生の喜び〟と逃れられない宿命的な〝残酷さ〟をその背景に持って、彼女の作品は人生の真髄に迫ろうとしていく。
 それぞれの人間がそれぞれの違いを認め合って生きていく。そこにこそ本当の自立があるはずです。それはとても難しいものです。社会的に生きている人間など、実は誰ひとりとして自立などしてはいないのです。

 江國香織の小説を読むと、いつも僕はそのことを考えさせられます。そしてその奥底には≪流しのしたの骨≫のような抜き差しならない「人生のぬかるみ」があることを意識させずにはいられないわけです。

 江國香織は『流しのしたの骨』のような家族の話、恋愛、ほかには不倫の話、童話風な作品をテーマにしたものが多く、今もなお現代を牽引する重要な作家のひとりといってよいでしょう。短篇の名手でもあって、これはあくまで独断ですが、直木賞受賞作の『号泣する準備はできていた』(2003)は、彼女の中ではあまり出来がよくない部類のものなので、べつの作品から入ったほうが賢明です。『すいかの匂い』(1998)『泳ぐのに安全でも適切でもありません』(2002)なんて、すごくいいです。江國香織のような作家にだって当たり外れもあるんです。