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血を流せ、虫けらども

 人生って、一寸先は闇だな、と最近つくづく思う。ぼくはTVを観ないのでよく知らないけれど。ベッキーとか、まだTV出てないんでしょ? 謹慎期間を置いて、謝罪をすれば、それでいいと思うんだけど。結局はスポンサーがらみで、需要と供給の問題で、使ってくれるところがあったら、使ってもらえばいいだけの話で。人でも殺したのか、と思う。

 誰だって、極端なことをいって、誰かに迷惑をかける、傷つける(人を殺める機会)を、その人生で持っているわけで、つまるところぼくは「想像力」を持たない人間がいちばん嫌いで、直接にいってしまえば、それは「大衆」だと思う。でも、その「大衆」が、要は消費して経済をまわしてくれる人たちであって、世の中を動かして(本当は動かされているんだが)いるんだから、まあ、身もふたもないのが現状なのかもしれない。

 最近、知り合いのある女性の婚約が、破棄された。理由は、彼女の家族のことについて、彼から侮辱的発言があったためだ。

 彼女は今大学の助教授で、まあ、世間的にいえば、高いクラスに属している立場の人であるとは思うし、実際に年収も悪くない。しかし、相手の方はもっとクラスが上で、一流大学を出て、一流企業に勤めている。

 彼女は母子家庭で育った過去がある。苦学をして、やっと今の状況を掴んだ境遇だ。だからといって上昇志向があるようなタイプではなく、彼女は福祉関連の分野を研究対象としており、大学に入る前は、精神障害者施設で働いていた。彼女がいうには、精神に障害のある人たちは愛しい、という。ぼくから見ると、彼女の思考は写真家のダイアン・アーバスにとても近い。アーバスは「彼らは選ばれた人たちなのだ」といった。彼女は彼らのために自分がなにかできないか、とずっと考えてきて、本当は現場で働きたいのだけれど、今は研究する立場に身を置いている。その辺は仕事であって、仕方がないらしい。そのうち教授のポストに就くことになるだろう。

 一方、元婚約者の方は、それほど裕福ではなさそうなのだけれど、少なくとも彼女とは違って、両親とも揃った一般の家庭で育ち、何不自由のない暮らしをしてきた。彼から見るなら、とりわけ彼女の母親の様子、たとえば、彼女の母親はぼくから見ても、実に変わった人で、会っても機嫌が悪いと、人に挨拶しないのである笑 もともと別れた夫がひどいDVだったので、自律神経に異常があるのだ。さらに、その母親に正式に籍は入れてはいないのだが、恋人がいるのだけれど、彼は定職に就いていない。そんななんやかんやが、一般家庭の常識人としての婚約者の方にとっては、異常ならざるえないものにだんだん映ったようで、最初は傍観していたようだが、結婚の日取りが決まり、指輪も買い、新婚旅行の行く先も決まっていくにしたがって、本性が出てきて、「おまえの家庭はおかしい」と暴言を吐くようになっていった、という。

 実は、同じようなことが、ぼくにもあった。

 ぼくは一度大学を辞めている。結局はべつの大学を卒業したのだけれど、最初の大学を中途退学した理由は、直接的にいうのなら、授業料を収められなくなったためだ。そのとき奨学金制度やなんかをいろいろ調べていたのだけれど、学生課の事務の人にいわれたことがきっかけとなって、ぼくは大学を辞める運びとなった。家族のことに言及されたからだ。大学入学時にはもちろん家族について記入すべき事項があり、保証人も必要である。授業料が滞納していることで、その学生課の男は、まず実家に連絡をとったが、繋がらず、次に保証人になっている親戚のもとへ連絡をとった。

 すでに、この時点でぼくの両親は離婚をしており、実家は消滅していた。手紙も返送されて、戻ってきた。保証人になってくれた叔父にも、なんとか頭を下げてなってもらった塩梅だったわけで、その学生課の男がいうには「あんたんとこの家ととにかく関わりたくないっていうんだよね、どうなってるの? 家庭がおかしいんじゃないのか? だから君もおかしいんじゃないのか? そういう人は我が校には相応しくない、辞めるならとっとと辞めて欲しい」というようなことをいわれて、まあ、若かったし、頭に血がのぼった、というか、やり場のない悲しみをどうしようもなく、それを抱えて大学に居残る理由を見出すことができなかった。

 家がおかしい。それはぼくのせいなんだろうか?

 だからこそ、がんばってきたのに。

 確かに、たとえば結婚とは一対の男と女が結びつくものではなく、家と家とが関係を持つことは事実だ。しかし、こういう事件に出くわすにしたがって、もう悲しみ、というより、行き場のない怒りがこみあがってきてぼくはどうしようもない。

 中野重治の短編作品に、ある家庭内事情によって、教職を辞さなければならなくなった人物を描いたものがある。彼は「それは絶望ではなかった、ただ悲しみという感情は確かにあった」と最後を結んでいるが、読んだ時は、確かにぼくもそう作品を読んだのだけれど、なぜなら中野重治がいっていることは正当であり、それが文学であり、人間であることは疑いないからだ。難儀だが、この社会という偽悪に満ちた世の中で、人間、は通用しない。だからこそ、中野重治はフィクションとして「小説」にそれを描いたのは間違いない。

 しかし、ぼくはその男の両目に有無を言わさず五寸釘を突き刺すだろう。そして縄で縛って、橋から逆さまに吊るして、相手がのた打ち回るのを傍観する。でも、それで死んでもらっては困る。縄を引っ張って、半死の男の体を、欄干から橋の上に放りだすと、それから、「謝れ」といって、土下座させる。相手は必死に、顔面に血の溢れる五寸釘を抜こうとするのだろうが、足で背中を蹴り上げて、とにかく謝れ、とぼくは怒号を放ちつける。これは車谷長吉の傑作「吃りの父が歌った軍歌」の猫の殺戮の仕方そのままなのだが、ここからはぼくの固有のやりかただ。相手が、「ご、ご、ごめ……」と土下座の仕方で、俯いたところで、その首を日本刀で一気に切り落とすのである。

 三島由紀夫が自害した際、その斬首は何度も肩に傷が入って、失敗したのが見てとれるというが、一度に切れぬなら、何度も振り下ろすまでだ。ぼくは銃も嫌いだし、ナイフもあまり興味がない。日本刀が好きだ。殺したい奴は、何人かいる。やるときは、日本刀で、その首を切り落とそうと決めている。

 さらに、これは文学等の芸術で学んだ最たるものなのだけれど、悪、とは連鎖する。それが人間=業の正体である。芸術を毛嫌いするものは、それを見たくないのかもしれない。そしてそれは愛の代名詞といってもよい。気の毒だが、その男の家族、とりわけ娘なら都合がよい、同じように、斬首して殺害する。家族中、その種をひとつ残らず絶やすまで、すべてを血まみれにする。逆さに吊るして、股倉に日本刀を突き刺すのが都合がよい。仕方がない。それは彼がそのときすでに「選択」してしまったことだからだ。

 彼女だけれど、現場の病院を離れなければならなくなったとき、泣いてここにいさせてくれ、と嘆願した。彼女は精神病者たちが好きなのである。時に、シーツをロープ代わりにして、患者は首を吊って死んだ。彼らは悪くない。なぜ自ら命を絶たなければならないのか? 少なくともぼくはそれを知っている。彼らは悪くない。ぼくは大声で叫んでやる。彼らは悪くない。百年前となにも変わってなどいない。だとするなら、日本刀で斬首するまでだ。多くの者は、病院のトイレで首を吊った。彼らのほとんどの者には、家族などいない。

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