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ここ最近読んだ本

日常生活

 本当はレビューを書きたいんだけれど、やってる余裕がないので、列挙。基本的に偏差値が低レベルの平民なので難しい本は読みません。まあ、だいたいこんな感じの読書がぼくの日常。ここ1カ月くらいで読んだ本。

黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

 

 最初に読んだのがいつかもう忘れてしまったのだけれど、たぶんぼくが世界で一番好きな漫画。三ヶ月に一度くらいは読んでいる。ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を読む田舎の住む女子高校生の少女のお話。ただ、それだけの話。ぼくの好きな漫画家に、高野文子のほかに、もうひとり、今『この世界の片隅に』が映画化されているこうの史代がいるんだけど、高野さんは本当に寡作なので、貴重な方。もしこの原作が映画化(アニメ化)されるなら、出来る限りの出資を惜しまない。なぜこの漫画がそれほど素晴らしいのか。今もって語る言葉を、ぼくは持っていない。

透光の樹 (文春文庫)

透光の樹 (文春文庫)

 

  実は高樹のぶ子さんって、初めて読んだんだけど、これは1999年発刊、谷崎潤一郎賞を受賞した彼女の代表作。読んでみて驚いたことに、三人称なんだけど、固定視点じゃないこと。これは現代小説では異例というか、衝撃だと思う。ほかの高樹さんの作品はどうなのか知らないけれど。これは収穫だった。題材は、中年というより、熟年に差しかかった男女の恋愛というより、明確に「性愛」を描いた作品で、その性描写が当時話題になったらしいんだけれど、いわゆる男から見て「こんな男いるかよ」という格好いい中年男性が主人公で出てくる。けれど、そんなことはこの小説の少しの傷になどならない。この小説のメスが切り開くのは、その、老い=病、に枯れていく「透明な性愛」とでもいうべき叙情性で、結局男女の繋がりが性交でしか確認できないものだとしたら、生きることは儚いものだというのが、この作品のテーマだと思う。

贋世捨人 (文春文庫)

贋世捨人 (文春文庫)

 

  ぼくは車谷長吉の全集を持っているので、それで全作読んでしまっているんだけれども、ときどき読みたくなって、文庫本を買って読んでしまう。これは彼の蓄膿症を患った高校時代から、一度作家を諦めて、料亭の下働きとして底辺を彷徨い、再び作家になるために上京をするまでを書いた自伝的作品。とにかく手練れ。ぼくが車谷さんの小説を読んで、いちばん興味深いところは、そのユーモアの感覚なんだけれども、彼が私淑している破滅型の私小説作家たち、嘉村磯多らにはその感覚はない。いったいどこでこれを養ったのか? 編集者時代に大江健三郎に原稿依頼をして、断られる件とか、おかしくてしかたない笑。

若い詩人の肖像 (講談社文芸文庫)

若い詩人の肖像 (講談社文芸文庫)

 

  その車谷長吉さんは『赤目四十八滝心中未遂』で直木賞を受賞されてるんだけれども、その前に伊藤整文学賞を固辞されている。理由は、日本文学に詳しい人なら皆知っているだろうけど、伊藤整が生前私小説を批判していたからにほかならない。有名な「私小説作家は逃亡奴隷だ」といった、伊藤の言葉がある。というわけで、伊藤整の作品は家に何冊かあるんだけれども、ぱらぱらめくっているうちに、この自伝的作品を読んでしまった。ぼくは彼の初期作品『街と村・生物祭・イカルス失墜』(講談社文芸文庫)を読んだときに、ニセモノだ、と笑、と思った作家だったので、 『氾濫』とか有名な作品も読んだけれども、同じ自伝作品として、格段に車谷作品のほうが優れているのはブーメランとしかいいようがない。ただ、デビューになるきっかけが、最初自分の詩集を自費で作って、それを献本しているうち、三好達治から返信が来た、というところなど、へー、と思ったし、実際昔の作家はこのようにして身を立てていったのだし、今もこのようにするべきだとぼくは思う、新人賞というのは本当に馬鹿げたシステムだと思う、最後のほうに梶井基次郎との交流が出てくるんだけれど、その辺りも面白く読んだ。

蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

 

  図書館で文芸春秋のバックナンバーをぱらぱらめくって読んでいたら、第154回の芥川賞受賞の滝口悠生さんが、「今、自分は複眼視点を追求していて、田山花袋の『蒲団』を読み返していたら、そのように書かれてあったので勉強になった」というようなことをインタビューでいっていたので、なんとなく自分も読み返してみたんだけれど、まったく複眼的視点ではなく、通常の固定三人称視点なので、???と思ってしまった。なにかと作品間違えてないのかな? しかし、これは今読み返しても、ずいぶんよくできた作品で、自然主義小説は完成度が高いものが多い。確かに、島崎藤村にもなれず、国木田独歩にもなれなかったのが田山花袋という作家の真実の姿なんだけれど、その彼が書いたこの女弟子に恋するなよなよした告白書の書が、その後の近代小説の嚆矢となってしまったのだから、歴史とは皮肉だ。田山花袋はやっぱり『田舎教師』かな。

([に]1-2)きのうの神さま (ポプラ文庫 日本文学)

([に]1-2)きのうの神さま (ポプラ文庫 日本文学)

 

  映画監督であり、作家でもある西川美和さんの2009年に公開された『ディア・ドクター』の原作本にあたる小説集。淀みない語り口は素晴らしいし、人物たちも個性的だけれども、今ひとつ生々しさが足りないのは、やっぱり映画のキャラクターを意識して立ち上げられた人格だからかな、と思った。でもこれはノベライズではなく、映画化の前に創作された作品なのね。冒頭の「1983年のほたる」は世評が高いけれど、全体として読むと、なんだか納得がいかない。

永い言い訳 (文春文庫)

永い言い訳 (文春文庫)

 

  というわけで、2016年度公開された、同じく西川美和さんの、今度は『永い言い訳』の原作本。こっちは長編。必要があって読んだんだけど、ぼくは西川さんには常々思っていることがあって、この方、他人の原作で映画を撮らないのかな、ってこと。以前は他人の本で撮ったこともあるんだろうか。『ゆれる』は「藪の中」だし、『ディアドクター』は田舎町の医療現場の話、『永い言い訳』は死んだ人間から汲み取られる残された者たちの生きることの意味、という、もううんざり、という食傷気味の題材ばかり。さらに、これは前二作より落ちると思う(映画的にはレベルは上がっていると思うけど)。ぼく自身は、内面を抉りだすことが創作者の仕事だと思っていない人なので、この人のは楽しめないんだな。通俗的な意味で、文学的な方なんでしょうね。師匠にあたる是枝さんも、ぼくは苦手。あと、この作品、直木賞候補になったんだけど、男性の選考委員はほとんど×をつけて、女性の選考委員は〇をつけたのね。同じ女性作家の山崎ナオコーラさんとは真逆なのが面白い。ナオコーラさんの場合は、男性は評価しているのに、女性は手厳しい。西川美和さんの小説や映画のファンは女性が多いのかな。 

言葉の冒険、脳内の戦い

言葉の冒険、脳内の戦い

 

  ぼくは笙野頼子さんのよい読者ではないんだけれど。応援している作家のひとりではあります。これはデビューしてから苦節十年、ようやく花が咲いた彼女のそれまでの苦労話的エッセイ集。彼女はその十年間書籍が一冊も刊行されなかった。小説も再読したくなって探したんだけれど、部屋のどこにもない涙 本が消えることはよくある。クレーマー作家として有名な彼女なので、もっと爆発したものを期待していたんだけれど、笙野さんって、やっぱり優等生なんだな、という印象。

人生に生きる価値はない (新潮文庫)

人生に生きる価値はない (新潮文庫)

 

  中島義道さんは哲学者。ご存じない方に説明しておくと、言い方が難しいんだけれども、一応カント哲学が専門で大学でも教えられていた先生なんだけれども、「哲学者」ではない。哲学者になりそこなった人です。でも、そういう人こそいっていることが面白い。ぼくは彼の著作はちょこちょこ読んでいる。

 これは日常がらみのエピソードを土台にして、中島さんの思考をぶちまけているコラムで一話一話完結しており読み易いです。個人的にこの著作で面白かったのは、カントとニーチェの比較論で、ニーチェの「神は死んだ」発言に触れ、初めて神を死んだといったのは実はカントであって、ただそのふたりの哲学者のその点に関する微妙な意識の違いを述べているところが、還暦を過ぎても血気盛んな中島さんにまさしく通じるものがある、と思った。

 ニーチェはある種の虚無主義者といってよいけれども、カントは神はいないといいながらも、どこか達観しておらず、じたばたしているところがある。ぼくが大学で最初に入ったのが西洋哲学だったんだけれど、なぜ哲学科に行ったかというと、生きることに苦しかったので救いがほしかったから。でも、結局救いなんてどこにもない、ということを悟らずにはいられなかったわけで、哲学はいわば哲学に対する哲学であって、これは映画も美術も同じ。だから、その専門分野を多少齧らないとわからなかったりもするわけ。ただし、手がかりにはなる。

 中島さんはドイツ哲学なんだけど、フランスの最も著名だといっていい現代思想家のフーコー著作を一度たりとも読み通せない、といっているところもおかしい笑。結局、過去の偉大な哲学者、文学者はひとつのことしかいっていない、とぼくは思っている。ここに述べられているように、「生きることに意味はない」ということ。ただその取り組み方が皆それぞれ違うのね。ニーチェは超人思想を持ち出し、キルケゴール実存主義を持ち出した。ぼくは18歳のときにすでに坂口安吾を読んでいたわけだけれども、安吾だってすでにこの世に救済はないことを説いていた。安吾の場合はファルスだったけれども。それで救済を求めて大学へ学問しに行ったわけだから、ぼくは当時安吾をまったく理解していなかったことになる、完全なアホ。

 ぼくは個人的にニーチェは大好きで、カントは詳しくないんだけれど、ただ薄々確信しているものがあって。ぼくが創作活動をしているのは、これまでいろいろなことをやったけれども、もっとも「困難」だと思ったのが、「創作」だったからにほかならない。ぼくはクリエイターをどんな存在よりも優位に置く。要はクリエイターってのは、その生きるに値しない存在無と日々戦っている人たちであり、だからといって、そこになにか「意味」を与えようとしているわけじゃないのです、創作とは人生から「意味を剥奪」することにほかならないのは変わらないし、でも、生きていることに意味がないなら、なぜ書くのか? やはり書くことでなんらかの意味を惹起させようとしているのじゃないか、というツッコミが入るのは当然だけれども、この辺りを明晰に突き詰めたのが、たぶん哲学者ではカントだ、と思っている。

 中島義道という「非哲学者」もまたこの辺りを徘徊しているわけで、或いは、柄谷行人は『トランスクリティーク』でマルクスにカントを見、カントからマルクスを見ることを書いた。たとえば、三島や太宰は自殺したけれども、漱石ドストエフスキーはどれだけ苛酷な極限状況に陥っても死を選ぶことはなかった。海外に行くと、いつもいわれることがある。日本だと、「まだ夢見てんのか?」だけど、「小説を書いている」というと、「絶対に書きつづけなさい」ということだ。フィクションとは歴史そのものであり、自らが他者として立脚する過程にほかならない。

自殺直前日記 改

自殺直前日記 改

 

  たまに手にとってしまう漫画家の故山田花子さんの生前の日記を集めた著作。彼女は高層マンションから飛び降りて、自ら命を絶ったのだけれど、ぼくがこの著作の中で個人的に興味深いのは、彼女が書いている編集者とのやりとりの箇所。これが非常に生々しい。まさしくこれだ! とページを開くたびに、震撼してならない。すべての漫画家志望、作家志望者はこの書籍を一冊所持するべき。まあ、読んでいて気分悪くなるんだけどね…。ぼくが結局思うところは、カフカの言葉。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ!」。編集者ごときは、名誉という腐肉に集る蠅ごときにすぎない。しつこい蠅は蠅たたきで殺してしまえ。なにも生産性とならないことにあくせくしているクリエイターこそ最も崇高な存在だとぼくは信じて疑わないし、山田花子という漫画家が偉大なクリエイターだった事実は少しも揺るがない。

井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど (講談社文芸文庫)

井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど (講談社文芸文庫)

 

  地下鉄に乗っていたら、驚いたことに、この著作を読んでいる、いくつくらいかな、20代後半くらいの男性がぼくの前に座っていて、驚いた。ブックカバーをかけていなかったから、すぐにわかったわけ。さらにぼくを驚かせたのは、この著作にたくさんの付箋が書籍から突き出して貼ってあったことで、一字すらも逃すまい、といったその真剣な表情はちょっと尋常じゃないもので、ひょっとしたら院生の方かな、と思った。ぼくは木山捷平なんて読む人がいるんだあ、とそのとき思ってとても感動して、思わず話しかけたかったんだけど、もちろんそんなことはできず、嬉しくて家に帰ってから再読しました。木山捷平講談社文芸文庫著作は全巻揃えてます。

東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン (新潮文庫)

東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン (新潮文庫)

 

  なんかパラパラめくっているうちに、最後まで通読してしまった。これで、この著作はこれまで何回読んだかわからない。本屋大賞受賞作で、ドラマ化、映画化もされたベストセラー本だから、読んだ方も多いと思うけれど、これ、単なるお涙頂戴の母子の別れを描いた作品ではない。近代以前まで遡行できる「日本の歴史」がテーマの底に横たわっている。もちろん、この陳腐な題材が凡庸な作品に留まらず、感動作へと昇華されるのは、ひとえにリリー・フランキーという天才の感性に帰すべきものだ、としかいいようがないでしょう。歴史的傑作。

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

 

  村上春樹訳が出たから再読したんだけれど、やっぱり村上訳は、少なくともぼくには合わない、という結論。もう、二度と騙されない、と思いながら、また読んじゃうのかな。レイモンド・カーヴァーの訳はいいと思うんだけど……。けっこう春樹さん訳は読んでるんだけどね。その他で感心したことがあんまりない。ぼくと同じ意見の方も案外多いんじゃないのかな。作品自体は素晴らしいですよ。『夏の黄昏』という邦題のほうを古本でお勧めします。

心は孤独な狩人

心は孤独な狩人

 

  とにかく衝撃すぎた。これ、けっこう長い小説で、一回前に読んだんだけれど。三日くらいで読んでしまったら、読後めまいに襲われて、その余韻が長くつづいて、立ち直れないほどだった。こんなに凄い小説だったんだな。1930年代のアメリカ南部を舞台にした、行き場のない、底辺を彷徨う、「絶望」するしかない5人の人物を対位法で描き尽くしたマッカラーズの渾身の傑作。彼女はこの処女長編を22歳のときに書いた。この作品には、アメリカ南部のそれはもちろん、作者自身の音楽家への挫折の影響が大きいと思う。同じ音楽の挫折から別のジャンルのアーティストになった人として、ヌーヴォー・レアリスムを代表するフランスのアーティストのアルマンがいるけれども、アルマンが同じ底辺層、――アッサンプラージュやジャンクアート――でも「破壊」と「集積」の方法意識に拘ったとしたら、マッカラーズはひたすら「絶望」に淫している。こういう作品を読んでしまうと、日本の現代小説を読むことが本当に馬鹿らしいというか、現代はおろか、近代においても、このレベルの作品をものにした日本の作家はほとんどいない。彼女はこの作品をクリエイトすることで、まさしく永遠となった。

 

※ このマッカラーズの作品を読んで決めたことがある。出来る限り日本の本を、これからぼくはあまり読まないことにする。日本のものは、どんなものだろうが、やはり薄い。そんなことに時間を割いている余裕はもうない。日本文化は美術と映画を知っておけば充分だと思う。