読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

作家は岐路に立っている。

hirayama-mizuho.cocolog-nifty.com

 レビューではなく、珍しく日本の現代作家に対するぼくのちょっとした感想。

「白いシミ通信」なるブログを書いていらっしゃるのは、プロ作家の平山瑞穂さんです。デビューはゼロ年代の半ば頃、『ラス・マンチャス通信』という作品で、最近復活したファンタジーノベル大賞受賞でした。

 もう、半年以上前のブログ記事なんだけれども、平山さんがこれまでの10年以上に渡る作家のキャリアにおける作品についてここで言及していらっしゃる。興味深いのは、その論点が、デビュー作の『ラス・マンチャス通信』を基軸にし、いかに自分がその後四苦八苦していったか、というところにある。

               ※          ※

 ぼくは平山さんがファンタジーノベル大賞を受賞され、『ラス・マンチャス通信』を上梓されたとき、書店で買い求めて、すぐに読んだ。感想については、少し辛辣な読者意見だけれども、個人的には後この作品が3倍くらいの分量があったのなら、夢野久作の『ドグラマグラ』、中井英夫の『虚無への供物』などと比せられる、日本の奇書としてこれからも長く読み継がれるカルト的な作品として傑作となると思えて、とにかく惜しいと思えた。でも、それを差し引いたとしても、十分面白い作品だし、このような読者に読み易い形に纏められた著者の手腕にひたすら感心した。

 ぼくは一度ファンになると、その作家のものは全部読むので、それ以降も平山さんの本は出るたびに買って読んだ。二作目は、映画化もされた、『忘れないと誓ったぼくがいた』で、これは前作のおどろおどろしいグロテスク満載のカフカ的世界とは打って変わって、涙溢れる感動恋愛小説になっていて、驚かされたが、だからといって、単純な物語に平山さんがその筆を終始するわけはない。ここにはカフカはむろん、ぼくなんかはベケットの痕跡を確実に嗅いだわけです。

 確か平山さんに関しては、以前もブログで言及した記事を書いたことがあると思うけれども、今どうしてぼくがこんな記事を書いているのか、というと、平山さんのデビュー後の作家生活が、他人事とは思えない苦境的なものであるからにほかならないからです。ブログ自体も5月以降更新されていない。新刊情報もない。

 一作目の『ラス・マンチャス通信』はカルトな作品だったので、編集者受けはよかったから注文は次々来てプロにはなれたけれども、読者受けする作品にはならなかった。よって、売れる作品を書かなければならない窮地に追い立てられた。その後の十年が平山さんの逡巡だったと言って過言じゃない。

 ぼくは最近出版社に、自分のポートフォリオ的長編小説を持っていった。ぼくはかつてプロ作家になりそこなった経緯があり、それは話すと長くなるので割愛するが、もう一回だけやってみようと思って、とにかく今回肝に銘じたのは、最初でとちると、後から挽回するのが大変だ、ということです。平山さんはこのレールに乗ってしまったように思えてならない。

 確かに、自分の得意な書きたいコアな文学性の高い作品と、一方、読者受けする軽めの作品、との振れ幅の中で、作家だけじゃなく、すべてのクリエイターは創作活動をしているのは事実だと思う。中には読者に受ければいいんだ、という作家もいるかもしれないけれど、それは作家かもしれないけれど、いいたいことはないわけだから、少なくともぼくはクリエイターとは呼ばない。そしてこれはぼくが関わってよくわかったことだけれども、一般文芸の編集者たちも求めているのはクリエイターであって、やはり便利屋は便利屋でしかないんですよ。彼らは文化をやっているという矜持がある。

 ぼくは今回の作品がボツだったら、もう創作活動はやめるつもりでいる。少なくともぼくより才能がある作家たちは、現代でもたくさんいるわけだし、読む分には足りないということはないだろう。ぼくもほかにやりたいこともたくさんあるわけだし。とにかく最初でドジを踏みたくはもうない。もし、今回の作品が市場に出ることになれば、専業で食べていけるとは露とも思わぬけれども、少なくともぼくは商業作家としてやっていける自信がある。(しかし、ある編集者は、ぼくの作品に込めたコアの部分をまったく読み取っていなかったので、これは呆然自失した。)ほかにも作品があるけれども、レールを踏み外さないためににこそ、その作品を編集者に持っていったのだ。今、岐路に立っている。しかし、電話は相変わらずかかってこない。ぼくはずっと電話を待ちつづけている。とにかくしんどい。早く、かかってきてくれ。わかっているのは、左右どちらの道へ進もうが、その道標には「絶望」と記されてあることだけだ。