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青い眼がほしい トニ・モリスン

 トニ・モリスンの『青い眼がほしい』です。母国アメリカでは1970年に発表され、日本では1981年に翻訳されていますが、「あとがき」の著者自身によると、この作が今のような形できちんと上梓するに至るには二十五年の歳月が必要だった、ということです。内容が奴隷問題や性描写を扱った等で、当時発禁処分も受けたこの小説は、今ようやく現代において陽の目を見たといってもよいと思います。

 トニ・モリスンは黒人であり、1931年にアメリカのオハイオ州で生まれています。本格的に台頭しはじめた黒人文学の嚆矢とされるリチャード・ライトの『アメリカの息子』(1940)は、プロテスト的意味合いが大きく、その後ラルフ・エリソンの『見えない人間』(1952)など、黒人の描く文学はある種の「捻じれ」を起こすことになりますが、それをみどとな形で世界に知らしめたのは、1960年代のウーマンリブの運動と共に台頭した、なにより女性作家たちであり、そのひとりが『カラー・パープル』(1982)のアリス・ウォーカー、もうひとりがノーベル文学賞を授与されるまでに至った、このトニ・モリスンなのは明らかです。モリスンの文学がなぜ凄いのかは、この一冊を読めばすぐにわかります。モリスンの文学世界、その技法は、少し複雑でもありますが、それは黒人の神話世界を再構築する、という意味を持っているためです。同時代の、やはり遅れた文化圏としてのアイデンティティを建て直す手法を駆使したラテン・アメリカ文学に通じるものがあると思います。

 黒人文学というと、「人種問題がテーマだし、自分には関係ない」と思って敬遠する人も多いかなと思いますけれど、彼女が描く作品は確かに黒人は登場しますが、ぼくは思いますが、「黒人文学」ではありません。それは「愛についての文学」です。

 これはモリスンのデビュー作ですが、ぼくはたいてい作家の本を読むとき、古いものから順番に読んでいきますが、この小説を読んだときの生々しさは尋常ではないもので、ぼくは彼女の最高傑作は『ビラヴド』(1988)だと思っていますが、ここには彼女の他の作品に通じる、文学的手法もすでに見てとれますし、内容的にも、よい意味で通俗的でもありますから、最初に読むなら、この著作がよいと思います。『青い眼がほしい』と『ビラヴド』は読むべきアメリカ現代小説です。早川epi文庫で読めます。

 

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

 
ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

 

 

 ストーリーと手法について

 最初にネタバレしますが、小説のあらすじは簡単です。語り手は、クローディアというローティーンの黒人少女です。彼女がピコーラという近所に住む、やはり同じローティーンの黒人の少女と、彼女のチョリーという父親との近親相姦という事件が起こってしまうことを、回想的に語る物語です。それはなぜ起こったのか。それはいったいなにを意味しているのか…。小説は通常の語り方とは、先ほどいったように、やや異質であり、多くの実験小説がそうであるように、最初は戸惑うかもしれませんが、最後まで読むと、すべてが読み解けるようになっています。モリスンはあくまで黒人の視点から、「この世界」を小説化しようとしていることが、ポイントなのです。

 小説は舞台が、秋、冬、春、夏の四つに分けられています。

 まず重要といってよいものが、冒頭のページに表れます。これは訳者である大社淑子氏によるところ、アメリカの小学校でよく使用される「ディックとジェイン」の文章だそうで、このアメリカ郊外に住むどこにでも見られる白人中流階級の日常の家庭風景描写に、父親と母親と、子供たちと、犬と猫たちが登場してくるのですが、『青い眼がほしい』では、これが、三つのパターンで繰り返されて、まず綴られるのです。それがだんだんと字体が崩れ、三つめでは、句読点がなくなり、「意味」そのものが崩壊するように描かれていきます。これはいったいなにを意味しているのか? それぞれの章に分けられた冒頭部分に、その「意味が崩壊した」ヴァージョンの「ディックとジェイン」が配置されます。『青い眼がほしい』に描かれた内容とは、まさしくこの日常的な父親と母親と男の子と女の子と犬と猫の話にほかなりません。しかし、黒人たちの家庭では、それらの風景は白人たちとはまったく違うのです。歪みまくり、狂気に瀕し、非劇に見舞われるのです。

 怖ろしいことが、まず最初、「ディックとジェイン」の後の、この回想形式的なプロローグの綴りに現れます。

「秘密にしていたけれど」と語りはじめられるこのクローディアの口調に、ぼくたちはまず読むというより、耳を傾けさせられます。耳打ちされるように囁かれるその言葉は、季節の花のことを語り、風の乗って漂う歌声のように一見聞こえますが、不意に、打って変わって「視覚」の洪水の氾濫の中に読む者を放りこみます。クローディアと姉のフリーダは、ピコーラの子供が無事生まれるように、とマリゴールドの種を土に埋めたのですが、芽は出ませんでした。それは土に深く埋め過ぎたからだ、と罪悪感に彼女は駆られたわけですが、彼女の話はその後にこうつづくのです。「土地自体が不毛だったとは夢にも思わなかった」と。

 

 内容について

 小説の内容について具体的に言及しましょう。

 最初が「秋」の章です。ピコーラという少女が、クローディア、フリーダの近所に住んでいるのですが、父親はチョリー・ブリードラヴといい、母親はミセス・ブリードラヴといいます。町一番の貧困家庭といってよく、父はアルコール中毒で、母は癇癪持ち、ピコーラはその醜い容姿から、男の子たちからいつもいじめを受けています。ピコーラが唯一安堵感を得られるのは、上の階に住んでいる売春婦たちです。

「冬」の章では、モーリンという転校生が登場してきます。モーリンは白人とのいわば「あいのこ」で、周囲の者たちよりも肌の色が薄く、ここで「階級差」が学校内で現れることになります。モーリンは彼らより優位な立場にあるのです。クローディアはここで、こう書いています。

  モーリンは「黒人」であり、その他の子供たちは「ニガー」だ、と。

  モーリンの前では、いじめっ子たちも大人しくなるのです。さらに、ここではひとつ重要なエピソードが現れてきます。ルイス・ジュニアという少年も、ここでスポットがあてられるのですが、彼は黒人の中では育ちのいい家庭ですが、彼は猫を虐待し、それをいっしょにいたピコーラのせいにしてしまいます。ピコーラは彼の母親に怒鳴りつけられ、家を飛び出していきます。

「春」の章においては、この小説の核となる、非劇的なエピソードがついに語られます。ここにおいて焦点があてられるのは、ピコーラの母親のポーリーンとチョリーにほかなりません。彼らの人生は悲惨そのものです。

  ポーリーンは小さな頃の怪我で足を引きずる障害を負っていました。歯が折れるなど、容姿についての身体的描写もでてきます。まるでその「生まれ持った重荷」を背負うように、彼女の人生は苛酷なものとなっていきます。チョリーの生い立ちはもっと悲惨です。ゴミ捨て場に捨てられた彼は、母親がわからず、父親にも見捨てられ、ようやく結婚したポーリーンともうまくいきません。しかし、ポーリーンがチョリーを愛していなかった、とはいえません。ここで描写される生々しい「セックスシーン」は非常に意味深いものといってよいです。

 ポーリーンが求めているのは、確かに「愛」ですが、それは「性」として身体的触れ合いもまた望むものです。しかし、その相手がチョリーなのかは曖昧です。そのチョリーの人生において、重要なエピソードがあって、それがまた興味深いのですが、少年時代に女の子と不埒なことをしようとしていた最中、白人たちによってその姿を懐中電灯で照らされ、囃し立てられた、ということがありました。この「見世物」的トラウマが彼にとってなにごとであったのか。つまり、先ほどのポーリーンが決してチョリーを愛していないわけではない、ということとこれは結びつくものとして作品内では明らかに配置されており、ぼくはこれは、意味をなさないもの、としてチョリーの脳裏に刻まれたトラウマ、と解釈しています。

 つまり、家庭を持ち、セックスをし、子供を育てる。一言でいえば、それは、愛、ですが、そのことがまさに字体が解体され、どこで句読点を打ってよいかわからなくなった「ディックとジェイン」ごとく、彼が娘のピコーラを強姦してしまうのは、通常の近親相姦に内包される「罪の胚種」とは異質なものとしてここで描かれているということです。この『青い眼がほしい』の最大の特質は、その点です。この『青い眼がほしい』という小説は、確かにキリスト教的な意味合いをいたるところに暗示させますが、それをどうにか逃れたところで言葉が紡がれているところだと思います。「罪」にはまだ意味があります。しかし、この小説が示唆するものは、すべては「不毛」だということなのです。

 作者はあとがきで、「なにもわかっていない子供」を語り手にしたこの小説が技法的に成功しているのかそれを自身で検証していますが、ぼくはこの書物を、キリスト教の枠外で描いたからこそ成功した小説だと思っています。重要な人物として、ソープヘッド・チャーチというイカサマ師が登場してきますが、この白人に同化しようとし、一見インテリに見える黒人祈祷師は、どんな病気でも治し、なんでも望みを叶える方法を教えるといい、「青い眼がほしい」というピコーラに、「毒物」を彼女に与え、ふだんから気に入らないと思っている下宿先の大家が飼っている犬に与えればよい、と伝え、彼女は実際そうして、犬はのた打ち回って死んでしまいます。

 最終章は「夏」です。ピコーラの悲劇が村中に知れ渡ったことが語られています。クローディアたちはそれをどうしたらよいかを考え、最初の視点へと、語り手の回想が戻って、作品は幕を閉じることになります。

 

『青い眼がほしい』というこの小説について

 このいささか通常の小説の形式を壊した、というより、壊れてしまったような小説の方法について、個人的な見解を少し述べたいと思います。半ば断絶したような、つまりエピソードはストーリー性を持っているのに対し、あくまで主体性が「人物」にある描き方をされている、その断片形式的に語られるこの小説は、その「構造」として重要なひとつの象徴性を背景に横たわらせているのは明白です。

 小説は、秋、冬、春、夏、の四部構成です。種を埋めた植物が、芽を出し、枝を伸ばして、葉っぱをつけ、花を咲かせるかのごとく、四季の移ろいを匂わせます。しかし、作品は「非劇」に終始し、この土地自体が「不毛」であることを語るに終始します。不幸は連鎖するのみならず、それはますます悪化の一途を辿るのみです。

 この小説のテーマをざっくりいってしまえば、白人優位主義という歴史がどれだけ黒人に劣悪な人生を強い、それだけでなしに、歪んだ精神状況をもまたもたらしたのか、それを描いたものといってよいでしょうけれど、ロリコン趣味のソープヘッドのピコーラに対するその行い、そのような象徴的なものとして見られるエピソードなどを見ると、著者が「あとがき」で、この作品は「自然の混沌」についての考察だ、と書いているとおり、ここに描かれた「強姦=暴力」という非劇は、白人が黒人に対して行ったことにとどまらず、トニ・モリスンはここでこれまでの狭義の「黒人文学」の突破口を開いたと思います、ここに描かれてあるのはあらゆる強者が弱者的立場の者に対して行った意味合いでの、まさしく歴史そのものという「強姦」にほかならないのです。

 黒人がその身体を生かして、スポーツや音楽の分野で、奴隷として連れてこられた異国の地、アメリカで活躍をしつづけているのは、世界中の誰もが知るところです。しかし、トニ・モリスンは挑みかかるように、真っ向からの純真なアプローチをとっています。白人が黒人より偉いのは、青い瞳を持ち、白い肌を持っているためです。あくまでそれは子供たちにとってのことですが。彼女はその「視覚優位主義」に対して懐疑を唱え、その視覚の錯覚によって悲劇に落ちる少女の残酷な出来事を描いて、人間の尊厳を問うているのです。

 最後のP4ほどの、ほとんど作者の独白のようになっている文章は、感動的で素晴らしいものです。長いですが、その文章を、すべて引用します。この引用部分を読めば、この小説がどのようなものかは、ほとんどわかると思います。

 

 こういう次第だった。

 小さな黒人の少女が小さな白人の少女の青い眼にあこがれたのだが、このあこがれの中心に巣食うおぞましさは、この願いをかなえてやった罪深さと似たりよったりだった。

 わたしたち、つまりフリーダとわたしは、ときどき彼女を見かけた――赤ん坊が早く生まれすぎて、死んだあとで。噂に花が咲き、みんながゆっくり頭を振ったあとで。彼女は見るからに痛ましかった。おとなは顔をそむけ、子供たち、つまり、彼女をこわがらない子供たちは、大っぴらに嘲笑した。

 打撃は致命的だった。彼女は、くる日もくる日も、巻きつるのように若い暗緑色の日々を、遠すぎて彼女にしか聞こえない太鼓奏者の音に合わせて頭を振りながら、あちこち、ただうろうろ歩きまわって過ごした。肘を曲げ、両手に肩を当てて、飛ぼうとしてグロテスクなほど無益な努力を永久に続けている小鳥のように、両腕をばたばたと動かした。羽があって大気を博ちながら、地上を飛び立つことのできない小鳥。到達することはできないながら――見ることもできないのだ――心の谷間を充たしている青い虚空に、はげしくあこがれている小鳥。

 わたしたちは、彼女のほうに目を向けないで彼女を見ようとし、決して一度もそばには近づかなかった。彼女がおろかだとか、いとわしいからではなく、こわがっているわけでもなく、彼女を助けそこなったからだった。わたしたちの花は一度も芽を出さなかった。わたしは、フリーダの言う通りで、自分が種を深く埋めすぎたためだと確信していた。どうして、あんなにぞんざいな植え方をしたのだろう? それで、わたしたちはピコーラ・ブリードラヴを避けた――永久に。

 こうして、歳月はハンカチのように折り重なっていった。サミーはとうの昔に、町を出てしまっていた。チョリーは貧民収容所で死に、ミセス・ブリードラヴはいまだに他人の家の家事をやっている。そしてピコーラは、母親といっしょに引っ越して行った町外れのあの小さな茶褐色の家のどこかにいる。いまでもときどき、その家にいる彼女の姿を見かけることがある。時がたつにつれて、小鳥のような身ぶりはすりへって、タイヤの輪とひまわりの間、コカコーラのびんととうわたとの間、世界中のごみと美しさの間――ごみと美しさこそ、彼女自身の姿だった――を歩きながら、ただ何かを拾ったりむしったりする動作に変わってしまった。わたしたちが彼女の上に投げ捨てて、彼女が吸収してしまったすべてのごみ。それから、最初は彼女のものだったのに、彼女がわたしたちにくれてしまったすべての美しさ。わたしたちはみんな――彼女を知っていたすべての人々は――彼女の上でからだを洗ったあと、とても健康になったような気がしたものだ。わたしたちは、彼女の醜さの上にまたがったとき、ひどく美しくなった。彼女の素朴さがわたしたちを飾り、彼女の罪がわたしたちを神聖にし、彼女の苦痛がわたしたちを健康で輝かせ、彼女の不器用さのおかげで、わたしたちは自分にユーモアの感覚があると思ったものだ。彼女は口下手だったので、わたしたちは雄弁だと思いこんだ。彼女の貧しさのおかげで、わたしたちは気前がよくなった。彼女の白昼夢でさえ、わたしたちは利用した――わたしたち自身の悪夢を鎮めるために。彼女はこういうことをわたしたちに許してくれたので、わたしたちの軽蔑を受けるのにふさわしいものとなった。わたしたちは、彼女を犠牲にして自分たちの自我をみがき、彼女の弱さでわたしたちの性格に詰めものをし、自分たちは強いという幻想を抱いて、あくびした。

 それはたしかに幻想だった。わたしたちは強くはなく、攻撃的なだけだったから。自由ではなく艦札を受けているだけだった。また、憐れみ深くはなく、礼儀正しいだけだった。善良ではなく、お行儀がよいだけだった。わたしたちは自分たちを勇敢だと言いたいために、死に求愛し、盗人のように生から身を隠した。立派な文法を知性の代用にし、成熟の見せかけを作るために慣習を変え、うその形を変えてそれを真実だと言い、旧い概念の新しいパターンのなかに、神の言葉と啓示を見た。

 しかし、彼女は狂気の側へ踏みこんだ。結局最後にはわたしたちをうんざりさせたために、彼女をわたしたちから守ることになった狂気の側へ。

 ああ、わたしたちのなかでも、彼女を「愛した」人は何人かいた。マジノ・ライン。それから、チョリーは彼女は愛していた。愛していた、とわたしは確信している。とにかく、彼は彼女に触れ、彼女を包み、自分の一部を与えるほど、彼女を愛した人間だった。しかし、彼の触れ方は致命的で、彼が彼女に与えたものが彼女の苦痛の母体に死を注ぎこんだのだ。愛は、けっして愛する者以上にはならない。よこしまな人々はよこしまに愛し、はげしい人々ははげしく愛し、弱い人々は弱々しく愛し、おろかな人々はおろかな愛し方をするが、自由な人間の愛が安全なことはかつてない。愛する相手に捧げる贈り物がないからだ。愛する者だけが、愛の贈りものを持っている。愛される者は、愛する者のぎらつく内なる眼の光のなかで、裸にされ、無力にされ、凍らされる。

 

 さて、いま、台所屑のなかを漁っている彼女の姿を見るとき――何を探しているのだろう? わたしたちが殺してしまったものを、捜しているのだろうか。わたしは、わたしが種をあんまり深く埋めすぎたわけではなく、それは、わたしたちの町の土と大地のせいだったといういきさつを話してきた。わたしはいまでも、あの年、国中の土地がマリゴールドにたいして敵意を抱いていたのだと考えている。ここの土は、ある種の花には合わないのだ。ここの土はある種の種子を育てようとしないし、ある種の実は結ばせない。そして、土地がそれ自身の意志で殺す場合、わたしたちは黙認して、犠牲者には生きる権利がなかったのだと言う。もちろん、わたしたちはまちがっているのだが、そんなことはどうでもいい。遅すぎるのだ。少なくともわたしの町のはずれの、わたしの町の台所屑とひまわりの間では、ひどく、ひどく、ひどく遅すぎる。  (『青い眼がほしい』 トニ・モリスン / 訳大社淑子 早川書房)