読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

なぜ皆本を本屋で買わないの?

エッセイ

 タイトルにとかく深い理由はないです笑

 最近、本が売れない、と出版の人たちが限りなくいってくるので、今日は本の話でも書きたい、と思います。

 まず、本が売れない、といいますけど。データを見れば、書籍の売り上げ数は、それほどピーク時よりは減ってはいないんですね。ちなみに出版業界のピークは、1990年代半ばで、リーマンショック以降、どんどん右肩下がりになっているのが現状です。ジャンルとして、最も売れなくなっているのは、雑誌ですね。これは版元には目の上のたんこぶで、もともと雑誌の利益によって、売れない書籍パートをカバーしていた、という実情がある。雑誌は広告が入りますから。広告料によって、出版は潤っていた、というのは避けられない現実ですね。漫画雑誌も売り上げが落ちていますね。ただ全体的には、読者が漫画を読まなくなった、とはいえなくて、いくらかの数が電子書籍に流れている、というのが実態です。

 今、それぞれの大手、準大手レベルの出版会社は、ある部門の売り上げによってカバーしている、というのが実情で、まあ、ある会社は不動産や、株等の投資で、会社を支えている、というところもあったりなかったり。

 ぼく個人のことを話すと、ぼくは若いときは、めちゃくちゃ本屋にお金を落としていましたね。わりと新刊のハードカバーも買っていました。ジャケ買いならぬ、表紙買いも、けっこうしていました。だいたい、海外小説、現代日本小説、人文科学系の本、で1/3ずつくらいの割合でした。以前に、女子大生の子と話をしていたときに、「本なんか買いませんよ」といわれて、驚いたことがあるんですけど、なにより仰天したのは、その子、趣味が読書なんですよ笑 彼女の場合はもっぱら古書店を利用しているみたいでした。最近は図書館を利用する比率が高まっていることも、書いておかなければならない重要なところですね。ぼくも小学校の頃なんかは、公共の図書館を頻繁に利用していたと思いますけどね。でも、今、図書館で、例えば現代の日本の小説などを順番待ちして借りているのは、主に主婦層でしょう。そもそも日本の主な読者層は、学生と主婦です。なのでここをターゲットに、とりわけ作家たちは狙いを定めてテーマを絞るんです。サラリーマンは専門書以外の本を読んでいる暇はなくなります。せいぜい新書だとか、ベストセラー本だとか、漫画とかしか、まあ、そもそも日本人は読まないですしね。

 ぼくが今大学生だったら、新刊で本を買っていただろうか? と考えるんです。たぶん、買っていたでしょう。当時、ぼくがアルバイトで稼いでお金を、本やCDなどにほとんどを費やしていたのは、理由として、それが投資だったから、ということがあったためです。

 村上春樹さんのエッセイに、学生の頃やはりバイトをしていて、一日仕事をすれば、一枚レコードが買えるな、と思って、働くモチベーションにしていた、という文章を読んだことがありますけど、ぼくは女の子とのラブホテル代をいつも換算していました。ラブホテルへ行くと、安いのから高いところまでありますけど、休憩で2~3千円とか、泊まると7千円~1万以上とか、かかってしまうわけです。ストレートな言い方ですけど、女の子と一回セックスするのと、一枚CDを買う値段が同じだとして、どっちをとるか? 両方とれればいちばんいいわけですが、まあ、ぼくは音楽をとっていた、ということです。そもそもホテルに3千円も払えるか、って話です。でも、好きなバンドの新譜のCDなら、3千円は払うんです。

 当時住んでいた板橋の商店街にも、まだ小さな古書店がけっこうありました。古本も買ったりしていましたけれど、それはあくまで「お宝もの」=絶版ものを探すことであって、新刊のものは書店で買うのが当然でした。

 そんなぼくでも、今の現状はどうか、というと、古書店図書館を利用することが多くなりました。けれども、理由は、時代に流されたからではないです。ぼくは10年くらい前に、本好きの人はわかると思いますけど、とにかく読みたい本が絶版だらけだったわけです。それで現状として、今買える本は絶版にならないうちに速攻で買っておいて、手に入らない本は古書店をめぐって見つけて手に入れる、という習慣がすっかり身について、それで読みたいな、という本をもう、だいたい手に入れてしまったんです。

 以前は集英社文庫ではラテンアメリカ文学はすごく充実していました。今はなき旺文社文庫小山清著作集を見つけたときは歓喜のあまり、泣きましたね。その『落穂拾い・雪の宿』を手に入れるために、ぼくはどれだけの東京中の古書店を徘徊したことか。カーソン・マッカラーズや、バーナード・マラマッド、バルガス・リョサソルジェニーツィンなどの絶版の新潮文庫も、入手はかなりかかりました。もうほとんど潰れかかっているような、腰の曲がったお婆さんがレジに座っていた古書店に、ぷらっと入ったら、もう絶対に見つけられないだろうな、と思っていた長谷川四朗の絶版本が、黄ばんで色褪せた背表紙をぽつねんとさせて、棚にもたれかかっているのを見たときは、思わずのけぞりましたね。いちばん嬉しかったのは、小島信夫の『私の作家遍歴』かな、と思いますね。「中身確認させてもらっていいですか?」といって、店主に見せてもらった覚えがあります。今も覚えてます。価格は¥9000でした。

 なので、現在のぼくの場合は、もう読む本は家に揃っているので、買う必要がないのです。文学好きの人は、同じ意見を持って下さると思うんですけど、日本の近代文学を、たとえば戦中から時代を追って読んでいくと、だんだん質が落ちるんです。40、50年代がピークです。近代小説があった、といわれる時代も、せいぜい1970年代まででしょう。後は、ぽつぽつと良質な作家や作品があるだけの状況なので、良質な本を悉く絶版にし、それを書店では買い求められず、その他の良質ではない作品にぼくらが金を支払わなければならないどんな理由があるというのでしょう?

 だから、ぼくは今は買わないんです。唯一買うのはガイブン=海外の翻訳小説、のみです。でも、流行もの、というのは、やはり気になるのも人間の性ですから、だから、図書館を利用する。それで、いいな、と思ったら、買いますよ。たとえば、リリー・フランキーさんの『東京タワー』とか、本屋大賞を受賞したときに読んだんですけど、最初はちょっとバカにしていたんですよね。でも、読んで、びっくりしたんです。今はうちにハードカバーと文庫も両方買っておいてあります。それで日本は再販制度の問題があるので、価格が均一なんですけど、さっきのラブホテルの問題を思いだしてみてください。

 たとえばカフカの文庫本が¥100で叩き売りされているのに、誰が現代の日本の作家の本を、それも¥1500とか、¥1800とかの金を払って買うかって、話です。今でも奇妙な印象として覚えてることがあるんです。古書店に行ったときに、大江健三郎の処女小説集『死者の奢り・飼育』が、¥100で売っていたんです。ぼくはそれをもうそれまでに3冊くらいは持っていたし、10冊くらいは買って、友達に渡したりしていたので、その店で実際に¥100で買ったわけですけど、長いことそのページを捲ったり、表紙を手で触ったりしながら、胸のざわざわした気持ちが消えませんでした。それは流通するあまり、さらに古書なので、古書店では最低価格の¥100なんです。ぼくも単に「この完璧で、傑作の小説集が¥100なのか」と思っただけなんですけど。でも、以来、ぼくは「ものの価値」というものに対する疑念が湧いたのは事実であり、経済観念の崩落が起こったんです。経済学を勉強するようになったのは、それからです。

 よい商品ほど、よいサーヴィスほど、価値が高い、とは、いいがたい。すべてを「価値意識」によって判断しようとしたなら、世界は崩壊するだろう。資本主義は曲がり角に来ている。たまたま今日読んだ雑誌に、米中の戦争は避けられない、という記事が載っていた。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

  直木賞をようやく受賞されましたが、なにが驚くって、ぼくはこの恩田陸さんの最高傑作と思われる著作が、幻冬舎から出た、ということですよ。恐るべし、見城徹幻冬舎は本当に作家のよさを引出し、ブレイクさせるのが上手い。幻冬舎がある限り、一般文芸は潰れませんよ。

みかづき

みかづき

 

  恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』も、今年の本屋大賞にノミネートされてますけど、直木賞とられたので、W受賞はなかなかないので、票がこっちに流れるかな、と。ということで、ぼくは、森絵都さんのこの作品が、本屋大賞受賞という予測です。というか、獲ってほしいなあ。ぼくは森絵都さんの著作を愛してやまないのです。