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掏摸 中村文則

  日本の現代文学において、村上春樹さん以降、質人気共に最も充実した作家といえば、きっと中村文則さんでしょう。素晴らしい作品がたくさんありますけれど、最初に読むなら、『掏摸』をお勧めします。

 2010年に大江健三郎賞を受賞した、――実際の発刊は2009年――、中村文則の代表作のひとつです。海外に翻訳されて、アメリカのウォール・ストリート・ジャーナルで2012年度のベスト10にも選ばれました。題材は、タイトルそのままのスリ。青年~中年の年の頃の主人公の男性が、昔ながらの悪癖であるスリ行為をやめることができず、一度離れた東京に戻ってくるところから話ははじまります。

 

掏摸(スリ) (河出文庫)

掏摸(スリ) (河出文庫)

 

 

『掏摸』のストーリーと、中村文則文学が持つ「抽象性」について

 ストーリーはとてもシンプルです。

 木崎という悪の権力者らしき人物が登場するのですが、主人公は逆らえずに任務を命じられて、ひとつの仕事に身を投じることになります。果たして彼はそれを無事成し遂げることができるのか……まあ、そういったストーリーです。話だけ聞くと、なんだか二時間ものの安っぽいミステリドラマみたいですけれど、作品内部にある「命題」に読者はだんだん惹きつけられるにつれ、読後は圧倒的な感動に胸を刺し貫かれます。

  この作品にはもう少し説明しておきたい重要ないくつかのポイントがあります。たとえば最初に、「まだ僕が小さかった頃、よく光を放つ塔が見えた」と唐突な文章が出てくるのですが、これが作品の核になっており、劇的な効果をもたらしていることは指摘しなければなりません。

 ぼくがこの『掏摸』を読んで、よく似たものして連想した文学作品は、大岡昇平の『野火』です。死ね、と上官からいわれて、戦場を飢えの苦しみと共に彷徨う主人公は一筋の“野火”を見るのですが、それは希望といってよいものです。主人公はその火に神の存在を見いだしていきます。『掏摸』に描かれる主人公に常に付きまとうこの「塔」は、一見似ていますが、ただ少しニュアンスが違って、希望の光、というより、己の生存、そのものを意味している「象徴性」です。それは彼を迎え入れることも、また消え去ることもしません。彼は環境に恵まれず、いわゆるツキがなかった人間として、描かれています。中村作品の主人公はたいていそういうキャラ設定の主人公が多いのですが、その悪い環境故、子供時代からと早々と悪い道へと堕ちていくわけですが、彼がなぜスリ師になったのか、この「塔」を通して、それが書かれてある箇所が作中にあります。

 

 あの古びた塔が、なぜ町の遠くにいつもあったのか。僕はそのことを、考えたことがなかった。それはもしかしたら、自分が生まれた時にはもう、どこかに立っていたのではないかと思えた。世界は硬く、強固だった。あらゆる時間は、あらゆるものを固定しながら、しかるべき速度で流れ、僕の背中を押し、僕を少しずつどこかに移動させていくように思えた。だが、他人の所有物に手を伸ばす時、その緊張の中で、自分が自由になれるような気がした。自分の周囲を流れるあらゆるものから、強固な世界から、自分が少しだけ外れることができるような、そんな感覚を抱いた。

 (中略)

 それは、思えば解放だったのかもしれなかった。自分の行為が、塔を除けば初めて周囲に、世界にさらされた瞬間だったのだから。だが、僕はそのような解放を、感じることがなかった。皆に押さえつけられ、恥の中で、僕は染み入るような、快楽を感じていた。光が目に入って仕方ないなら、それとは反対へ降りていけばいい。僕はにやけてくる顔を隠すこともなく、抵抗もせず、押さえられたまま倒れていた。教室の窓から、塔が見えた。今こそ、あの塔は、僕に何かを言うだろうと思った。あの塔は、長く長く、立ち続けていたのだから。だが、塔はなおも、美しく遠くに立つだけだった。恥の中で快楽を感じた僕を、肯定も、否定もすることなく。僕はそのまま、目を閉じた。

 

 光り輝く表の世界へ行けないのなら、裏の世界へ行くしかない。けれどもすでにその出発の点から、この主人公はそれが絶望的な道であることを知っています。

 実際にこの『掏摸』という作品では、主人公をひたすら追いつめていくエピソードが畳みかけられていくばかりです。

 では、裏の世界へ行った彼に光が訪れることはないのか。チャンスはないのか? それもまた作品中に書かれてある部分があります。悪の権化である木崎という男に任務を命じられたときに、その木崎が彼にいう言葉です。

 

「……他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似てると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も味わってるのは神だ。俺は多くの他人の人生を動かしながら、時々、その人間と同化した気分になる。彼らが考え、感じたことが、自分の中に入ってくることがある。複数の人間の感情が、同時に侵入してくる状態だ。お前は、味わったことがないからわからんだろう。あらゆる快楽の中で、これが最上のものだ。いいか、よく聞け」

 男は少し、僕に近づいた。

「この人生において最も正しい生き方は、苦痛と悦びを使い分けることだ。全ては、この世界から与えられる刺激に過ぎない。そしてこの刺激は、自分の中で上手くブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる。お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。たまらないぞ。その時の瞬間は! 世界の全てを味わえ。お前がもし今回の仕事に失敗したとしても、その失敗から来る感情を味わえ。死の恐怖を意識的に味わえ。それができた時、お前は、お前を超える、この世界を、異なる視線で眺めることができる。俺は人間を無残に殺したすぐ後に、昇ってくる朝日を美しいと思い、その辺の子供の笑顔を見て、何て可愛いんだと思える。それが孤児なら援助するだろうし、突然殺すこともあるだろう。可哀そうにと思いながら! 神、運命にもし人格と感情があるのだとしたら、これは神や運命が感じるものに似てると思わんか? 善人や子供が理不尽に死んでいくこの世界で!」

 

 この木崎という悪人は、自身の言葉でいうなら、すでに神になってしまった存在として作品では描かれていますが、対比的に、主人公は、悪になりきれていない卑小な存在、です。

 少しこの作品の、というより、中村作品すべてに通じる文学的性質について、論じたいんですが、彼の作品は、この『掏摸』における、塔、のように、ある種の抽象性を持っていますが、それは彼がただ一人の生身の人間であるのに対し、周囲のすべての世界が無個性で、血肉を通わせていないものだからです。

『掏摸』の主人公は、ある可哀相な母子に慈善の愛を覚えて、分け与える行為をしたりもします。極めて、憐憫的な感情を持っています。読者の中には、木崎と似て、そんな中途半端な気持ちを持ち得ているから、救われないままだ、罠にはまってしまったんだ、と思う人もいるかもしれませんが、しかし、この『掏摸』に関わらず、中村文則の描く世界は、先に引用した木崎の台詞を見てもわかるように、そういう単純な図式の善悪やパワーバランスの話として、成立しているわけではありません。彼がなぜそのような矛盾の中でスリを行いつづけるのかを、ここで再び立ち止まって、読者は考えてみるべきです。

 最後のほうで、木崎がこういう台詞が出てきます。

 

「……人生は不可解だ。いいか、よく聞け。そもそも、俺は一体、何だったのか。お前は、運命を信じるか? お前の運命は、俺が握っていたのか、それとも俺に握られることが、お前の運命だったのか。だが、そもそも、それは同じことだと思わんか?」

 

 この作品は、誤解を恐れずに単純にいってしまうのなら、神と人間との戦いを描いた作品といっていいと思います。或いは、神というものを生みださずにはいられなかった人間と、その神と人間の戦いという、そのような矛盾と葛藤を描いた作品だ、と。作者はどう思われるかわかりませが、ぼくは漫画の『デビルマン』や『デス・ノート』に近い内容を、この作品は持っていると思ってやまないです。

 主人公がスリをはじめたのは、もちろん最初引用したように、解放感もあったでしょうし、そうするほかに生き延びる術がなかったこともあったでしょう。それが彼に残された唯一の相応しい道だった、とひとまずいえるかもしれませんけれども、彼がその行為を通して見つめているものは、もっと人間の奥深くに眠るものなわけです。これは能動的行為です。彼はこの生という宿命ならざる受動的でしかありえない生に対して、主体的であろうとします。そう考えると、この『掏摸』に描かれた「塔」というものの“抽象性”としてのリアリティーが存在性を強く放ってくるのがわかると思います。彼は悪徳の道を選ばずにはいられず、また世界は抽象性を帯びずにはいられないのです。

 一応サスペンス小説なので、結末はどうなるかは控えますけれど、この「運命」に翻弄されていく主人公が見いだしていくものは、単なる助かるのか、生き延びるか、逆転劇があるのか、などといった陳腐な人生劇などではなく、悪という社会のもうひとつの裏側を通して現れてくる、人間の矛盾、自分という矛盾、この世界の真実というべきものです。傑作です。

               ※          ※

 中村文則のこの作品は、ほかの作品同様、ドストエフスキー作品に多大な影響を受けて書かれたのは、このレビューを読んだだけでもわかると思いますが、この作品において追及されている文学的問題は、カミュの『異邦人』、サルトルらの不条理文学、実存主義の思想が強いです。もちろんそれらの文学的課題を深く掘り下げたい読み物に手っ取り早く触れたいのならば、それらの古典と呼ばれる文学作品を読めばよいし、実際に作者自身が解説で書かれているように、この作品を生み出すきっかけとなった『旧約聖書』に触れれば効果的でしょう。けれど、中村文則アドヴァンテージは、それらの壮大なモチーフをこのようにスリリングなサスペンス的技巧を持って描ききった、という点にあるというところと、先にぼくが書いたように、彼の小説はある種の「抽象性」を帯びずにはいられない、というところが、極めて重要だとぼくは思っています。これは単なるサルトルカフカの影響でなしに、やはり中村さんの文学性の核心部分じゃないか。これは一考しなければならない重要な問題かもしれない、とずっと思っています。

 中村文則さんはぼくの好きな現代作家のひとりです。どの作品もとても青春していてよいです笑 高校や大学生の頃に読めば、めちゃくちゃはまるんじゃないでしょうか。

 ぼくは中村文則という作家の登場は決定的に新しかった、と思っていて、登場したのは2004年ですが、時代的に、それから田中慎弥さん、西村賢太さんらが、つづいて現れてくるんです。古典の過去作からの借用がその方法意識にありながら、単なる寄せ集めではなく、そこに込められた作者の思いが「本物」である、というまさにその愚直すぎる純粋さで、彼らは文学を蘇生させようとしている姿勢が、共通しています。

 この『掏摸』と、その前に発表された『何もかも憂鬱な夜に』(2009)が、中村文学の転換点です。自身でもそうおっしゃられています。『掏摸』には続編として『王国』(2011)があります。中村文学の起源に迫りたいならば、デビュー作の『銃』(2002)に触れてみることをお勧めします。これも海外ですこぶる評判がよいです。『銃』で、合わない、と思ったら、たぶん中村作品は相性がダメだと思います。そしてこれで震撼したら、中村ワールドの虜になるのは確実です。アンドレイ・ジッドの影響で書いた、とご自身いってますけど、二十四歳の青年が描いたとは思えぬほどの恐るべき傑作。ぼくは『銃』が、結局いちばん好きなんです。

www.nakamurafuminori.jp ご自身の公式サイト。もともとあとがきを好まれる著者ですけれど、ここでご自身、全著作について解説されてます。