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泥棒日記 ジャン・ジュネ

海外小説

  いわゆる「耽美」とか、「性的倒錯」みたいな言葉に拒否感があって、その手の書物やアートに触れない人って、けっこういるんじゃないかな、と思うんですけれど、もったいないと思います。ぼくはジャン・ジュネ(1910-1986)の小説を読んで、それらのひとりよがりな先入観が思いきり吹き飛んで、フランス文学にのめりこむきっかけになりました。ジュネらの文学が語っているのは、端的に、人間についてなんです。

 いつも思うんですけど、ジュネの作品に関しては何を語ってもしょうがないように思えて仕方ない気持ちもある。読了すると、読書中にあった迸るような熱のようなものが、なんだか冷めてしまう。今回はその辺について、ちょっと個人的に考えながら、書いてみようと思います。

 

泥棒日記 (新潮文庫)

泥棒日記 (新潮文庫)

 

 

 ジャン・ジュネという作家はかつてあらゆる犯罪をして(殺人以外)青春を生きてきた、極めて特殊な作家です。彼はかつて窃盗犯で監獄に入れられており、私生児の浮浪者であり、LGBT、つまり同性愛者でした。現在代表的な作品のほとんどが、日本でも翻訳されて、文庫で読めますけども、代表作をあげるとするなら、やはりこの『泥棒日記』(1949/朝吹三吉訳)だと思います。この作品は、若い頃のジュネの文字通り最底辺の暮らしをしていたことを記したもので、時期的には、ジュネの主に監獄で書かれたいくつかの小説と、その後サルトルコクトーらの嘆願によって終身刑を逃れたあとに執筆するいくつかの戯曲のちょうど真ん中に位置していて、たぶんこの作品において、ジュネは自己を深く内省し見つめることで、人生を総括しようとする意志があったのだろう、とぼくは推測します。

 ただ、のっけから、レビューをひっくり返すような事柄から筆を起こしますけど、ジュネを論じた最も有名な論評は、サルトルの「聖ジュネ論―殉教者と反逆」(1952)です。これ、かなりの重厚な評論なのですが――実はかつて文庫化されてるんですね、驚いた――、興味ある方はこの著作も読んでいただけたら、と思いますけど、サルトルはある種ここでジュネを「神聖化」=「物語化」しています。光文社古典新訳で『花のノートルダム』(1942-1943/中条省平訳)が翻訳されましたけれど、ここで的確な論評がされていて、ぼくもほぼこのレビューに同意見です。興味がある方はこのレビューも是非読んでください。

 

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 いいたいのは、とにかくジャン・ジュネという作家がどれだけ貴重で特異な作家であったか、ということです。ジュネは自身で作品を映画化していて、詩も書いていますが、戯曲も多数書いています。晩年は、政治活動に身を捧げます。20世紀を代表する彫刻家であるアルベルト・ジャコメッティはジュネととても深い親交があり彼はジュネの肖像画を描いています。ジュネは刑務所にいたとき終身刑を言い渡されていました。彼がなぜそれほど特異であったのか? 私生児として生まれ、無学な彼がどこでそのような文学的教養や創作態度を身に着けることが可能だったのか、とよく問われますけれども、彼は近代の作家たちとは、その意識が異なっています。彼は「あらゆるもの」から、はみ出しているんです。そして終始彼は詩人であり、個人でありつづけた、とぼくは思ってやみません。この辺りが、きっと鍵です。

 

『泥棒日記』のストーリー

 この小説は最初に、ジュネ自らが徒刑場へ行くことを望んでいた、そのことが宣言のように書かれてあります。さらに、重要なところですが、彼はそこへ導かれた悪党の男たちを美しい花で飾ってやるのだとも書いています。ちょっと引用してみます。こんな感じです。

 

 徒刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。もし、この、わたしが居心地よく思う世界を、自分の心の命ずるままに選びとったのだとすれば、わたしには少なくともそこに自分の欲するさまざまな意味を見いだす自由はあるだろう、――それで、花と徒刑囚とのあいだには緊密な関係があるのだ。一方の繊弱さ、繊細さと、他方の凶暴な冷酷さとは同じ質のものなのである。わたしは、徒刑囚――か犯罪者――を描くことがあるたびに、その男を数々の花で飾ってやるだろう。そのため彼は花々の下にその姿を消し、そして彼自身一つの巨大な、新しい花になるだろう。人々が悪とよぶものに向って、わたしは愛ゆえに、監獄へとわたしを導いた冒険を今日までつづけてきたのだった。悪に身を捧げた者たちは、たとえ皆がみな美しくはないとしても、男性的美徳を備えている。彼らは自ら望んで、あるいは自分のためにある災厄を選びとった結果として、曇りない意識を保ちながら、そして少しも嘆くことなく、社会の指弾と排斥を受ける汚辱の境界へ入ってゆく――愛欲が、真に深い場合、人々をそこへ突き堕すものと同様な、この境界へ入ってゆく。性愛の演技は、恋人たちの夜の言語がその様相をきれぎれに洩らす、名状することのできない一つの世界を発見させる。恋人たちのこのような言語は筆紙に写しうるものではない。人はそれを夜、耳もとで、かすれた声で囁く。しかし明け方には、忘れてしまうのだ。  (『泥棒日記』 ジャン・ジュネ)

 

 やがて作品はジュネと思しき主人公が、スティリターノのという魅惑的な男性にまず出会ったスペインを舞台からはじまって、母国フランスへ渡り、さらにヨーロッパ各地へ放浪していく彷徨を、一応時系列的に辿って、当時のことを回想するように描かれています。日記と銘打たれていますが、日付などなく、完全な小説といってよいです。

 筆致の特筆として、ある部分では細かいイメージが連ねられ、フラッシュバックが多用されます。ある部分では、どんどん端折って描写されるので、読みにくい一面もありますけれど、大事なのは、そこで当時主人公がなにをしていたかではなく、そのときどのようなイメージを抱いていたか、にあります。読者は彼の意識に身を委ねればいいんです。これはストーリーを追っていく小説じゃありません。彼の「自意識」に深く読者が潜っていく作品なんです。ジュネがその中で育んでいたのは「裏切り」という感覚です。

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  物乞いをし、窃盗をして生き延びた、この無学でホモセクシャルアウトローの男は、自分のその卑劣な生を肯定しようとするとき、唯一信じられる救済の感覚を、裏切りに求めます。彼が熱愛するスティリターノという男も、またジュネをすぐに裏切るわけですが、ジュネは悲しむのじゃなく、だからこそ彼を愛するようになる、という倒錯的な現象が起きます。スティリターノを凌駕するアルマンという野性味溢れる真の悪党が後に現れてくるわけですが、彼もまた実に卑屈な一面を持ち合わせていたということも描かれていくわけですけれど、それもまたジュネを落胆させません。スティリータノは別の自分より美しい男と仲良くなって、ジュネを文字通り裏切っていくんですが、そのような中でだけ彼らは絆を形成しているともいえる。彼ら悪党たちは共犯者であることでしか絆を繋ぐことができないわけですけれども、これは単に悪党に身を置く裏側の人間のリアルさを抉ったものじゃありません。これは「倫理」なんです。

 例えばここに描かれる、愛する男としてまず英雄として語りはじめられたスティリターノは、ジュネにコカイン運ばせて、自分は列車で国境を逃れるという卑劣極まりない行為を犯します。オートバイを盗んだといっていても、実は警察とのあいだで裏取引をしているわけで、作品の中盤以降でははっきりと卑小な人物として姿を露呈しだします。無頼漢のアルマンが登場することによって、スティリターノは作品内部で存在感をだんだん失っていくわけですけれども、この「転落」によってもなお、というよりこの「転落」が、ジュネに絶望をもたらしはしません。

 スティリターノと出会いによって、ジュネは悪を自覚し、再会する頃には、彼も一目置くほどの悪党になっています。この作品は泥棒として青春時代を過ごしたジュネの青春時代を回顧しながら、同時に、自分の泥棒としての立場を強く認識していく過程が書かれてあるわけですが、ジュネの詩的リリシズムが豊饒化していくほど、周囲の男たちは輝きを失っていくことこそが、重要です。これが本来の美の存在の証なんです。

 

『泥棒日記』におけるぼくの好きなところ

 ぼくがこの作品で個人的に、好きだなあ、と思うところを、書きます。

 まず、この若かったこのときジュネが、自分は言葉を持っていなかった、とここで書いているところはとても重要だと思うんです。もしジュネに学があっのなたら、泥棒ではなしに、言葉によって当時自分の人生を肯定したんじゃないだろうか、と思います。そして彼は作家になっていたかもしれません。たぶん、ストーリーをなぞるような、自己を告白するような作家になっていたかもしれません。しかし、当時彼は「文学」の外にいた。それは「生活」その外にいた。ジュネの言葉でいうのなら「あなたたちの世界」の外にいたということです。

 警察についての下りはめちゃくちゃ興奮します。泥棒の宿敵であるはずの警察にジュネは愛情を覚えている、とここに書いています。こんなひとつのエピソードがあります。

 宿無しの彼が海岸の小屋で寝ていると、警察官が入ってきて、ジュネはこの男の欲望に応えます。今そのとき盗人たちが船を下りて海岸に上陸しようとしているからです。この警察官の欲望に応えることが「正義」と相反したものに加担していることをジュネは知り、警察としてのその男に情熱を抱くのじゃなく、あくまでその立場に、その「バッジ」に情熱を抱くことを明言します。彼らは正義という名の最も社会的通念の元で泥棒を刑務所へ送りつける手先です。そのことによって自身の悪が悪足りうることを、彼はここに見つめ、「裏切り」の感覚を引っ張りだし、恍惚になるのです。

  読むにつれ、ジュネの凶暴な悪への意識に比べれば、彼が恋焦がれるスティリターノなど、その障害を利用して(彼は片腕です)人の慈愛につけこむ、極めて卑小な人物に見えてきます。美形だと描写されているロベールも、彼が恋しているリュシアンも、それほど美しい男に見えてきません。

 ただ、ひとつ物足りないところがあって、アルマンの描写はしっかりなされているにも関わらず、そのときの意識の高揚=リリシズムが、今ひとつ叙述が足りないという感じがあるんですが、ジュネは本質的にアルマンをどう見ていたのかな、とぼくはちょっとだけ思います。

  とにかく、この小説には主人公が恋慕する男たちが、そういうふうに何人も登場するわけですけども、とりわけ重要と思われるスティリターノのとアルマンの関係が今ひとつ進展性に欠けるところが残念といえば残念です。後半スティリターノを殺害しようと目論む最高度の緊張のところで、作品が行き場を失って、その後バタバタとまとまりをつけていくような構成になっています。もちろんこれは小説じゃなく日記という体制を一応とっているので、そういう構成の欠点はないものねだりなのかもしれないし、なによりジュネを読むときの最重要な点、彼の自意識が膨らんでいくほど、周囲の人間たちが小粒になっていくことと、これは並走しているもので、これはひょっとして意図されたものかもしれないです。もう少し後半のふくらみが欲しい、と思うのは、ぼくの欲張りなのか。でも、そのくらいこの作品の前半から中盤にかけての文学的豊饒さは凄いものがあるんですよ。

 この作品は、ジュネという泥棒作家が悪への過程を、自分の過去を振り返りながら、その自意識を高めていくものです。ジュネを悪へと導いた周囲の者たちは、ジュネの意識に吸収されたのち、役割を終えたように、その輝きを失っていく。このジュネの圧倒的な自我の勝利は、終始個に回収されて、美に昇華されます。

 

 ジャン・ジュネという非文学者

  日本では、いち早くジュネに礼賛を送ったのは、三島由紀夫でした。現代では、松浦理英子さんや村上龍さんは、明らかにジュネの影響を受けています。

 最初に読むなら、やはりこの『泥棒日記』がよいと思います。この作品が感動的なのは、いかにも文学的な課題が作品内で追求されているように見えつつ、ジュネの詩的方法が意外にもシンプルに達成されているところです。

 何事も都合のいいように自我に引き寄せて語ろうとする、この自意識過剰的手法は、いかにもフランス文学的なんですけど、先ほどいいましたように、ただの自意識過剰、自己肥大として自己満足やノスタルジーや憐憫に陥ってしまう性格が皆無です。多くの場合そうなってしまうのは、彼らがたいてい「社会化」された言葉で自分の人生を語ってしまうからで、ジュネは身に起こったことを文学的言語で書いたりはしなかった。これは最たるジュネの非凡なところです。彼は『泥棒日記』によって、それ以前にはまだ持ち得ていた、いわば「文学」の外に出ようとしたのじゃないか、とぼくは思えてならない。「総括」しようとした、というのは、そいういうことです。それもある意味稚拙に、野放図に、反逆的に。

 すべてのものごとを自我によき寄せて、都合よく世界を歪ませ、逸脱させ、自分の内部に矮小化してしまおうという企みが、この作品にはそこかしこに潜んでいます。

 とにかく衝撃的な作品です。

 私生児として生まれ、泥棒、同性愛者、浮浪者、犯罪者として生きたひとりの男が、これまでの自分の人生を辿りながら、現在から過去を総括しているのじゃなく、そのときなにをしていたか、その時なにをイメージしていたか、その意識が明晰化するほどポエジーが炸裂する。本当にぼくはこの作品が好きで、いつも読みながら何度も泣いてしまうんです。

 ザ・リバティーンズ、ベイビー・シャンブルズのピート・ドハーティがジュネのファンで、ものすごくよくわかるというか笑、一見ページを開くと難しそうなんですけど、女優の中谷美紀さんとかも好きみたいで、意外に、ジュネの愛読者は多いように思いますね。